大塚形成外科を訪れてから一ヵ月が経ち、ようやく梅雨も明けようとしていた。ほとんど曲げられなかった左膝もさほど痛まずに曲げられるようになり、怪我人ですとアピールするだけの効果しかないと思えた松葉杖ともようやくお別れを許された。 「松葉杖は不便の象徴ですから、これは権丈君に差し上げます。両足で歩けることがどれほど恵まれたことであるのか忘れそうになったら、これを見て思い出してください」  大塚医師からそんなことを言われ、松葉杖を手渡された。正直、あまり嬉しくはないプレゼントではあったが、ストレッチやジョギングを許されたことともセットであると考えると、案外小粋な餞別だったのかもしれない。  とにもかくにも、またグラウンドへ戻れるのだと思うだけで気分が弾んだ。  中間考査を終えたわずか一ヵ月後にやってきた定期考査もようやく今日で終わりを告げた。もうまもなく夏休みへと突入する時期であるが、部員たちは練習もせず、ほとんどが食堂に集まっていた。  松葉杖を手に持った権丈は、食堂にできた人だかりの中心にいる人物の後ろ姿を見て、思わず声をあげた。 「ちょっとごめん。通してくれる」  ここぞとばかりに松葉杖を左右に振ると、黒山の人だかりは波が割れるように左右に別れ、権丈へ道を譲った。テーブルには黒田と兵藤、更には控えゴールキーパーの志木の姿があった。そして、その対面には制服姿の平岡が身じろぎひとつせず座っていた。黒縁眼鏡はかけておらず、コンタクトのようだ。その意味は一つしかない。 「お帰り、平岡!」  権丈は松葉杖を高く掲げて、腹の底から大声を出した。 「やあ。久しぶり」 「久しぶり? ああ、そうだね。たしかに久しぶりだ」  学校では特進クラスの平岡と遭遇する機会はほぼ皆無だった。寮で三年近くを一緒に暮らした家族以上に家族も同然の存在と、たった二ヶ月離れただけで永久に別れてしまったような喪失感を覚えた。その平岡がひょっこり帰ってきた。嬉しくないはずがなかった。 「こいつ、冬の選手権も出るつもりらしいぜ。二ヶ月もサボっていたくせに」  兵藤が精一杯毒づいたが、口元がほころんでいるのはバレバレだった。 「夏で引退するなんて一言も言ったつもりはないよ」  平岡はあくまで冷静な物言いだった。 「夏までのつもりだった、とかなんとか言っていただろう。あれが引退宣言じゃなかったら何だったんだよ」  兵藤がインターハイ予選敗退後の平岡の言動を蒸し返したが、それにしても他人の発言のいちいちをよく覚えているなと思う。こう見えて意外と頭脳派なのかもしれない。 「だから実際にそう言ったでしょう。夏までのつもりだって」  平岡も譲らず、議論は平行線をたどっているようだった。周りを取り囲んだ下級生たちは、リハビリ中の権丈に代わってゲームキャプテンに就任した兵藤が、二ヶ月間部活を留守にした平岡の復帰を許すかどうかに着目しているらしい。 「一度あっさり辞めといて、なんの詫びもないことに納得いかん。復帰したければ土下座ぐらいは必要だろう」  兵藤が復帰の条件に土下座を要求したが、そこは諸手を上げて歓迎すべきであり、陳謝させる必要などない。兵藤と黒田の間に挟まれて座っていた志木が口を開いた。 「平岡が夏までのつもりだった、って言ったのはサッカーのことじゃないんだ。勉強のことなんだよ」  兵藤が眉をしかめた。 「特進クラスの指定校推薦は一学期の成績だけで評価されるんだけど、周りはみんな優秀だから、さすがに平岡でもサッカーをやりながら特進クラス内で一番の成績を取るのは難しかった。だから夏までは勉強に専念した。推薦さえもらえれば、あとはサッカーに集中することが出来るからね」  平岡は無表情を保っていたが、志木は説明を続けた。 「さすがに寮では集中して勉強をするのに適した環境じゃないってことは、みんなも分かってくれると思うけど。夏からは成績のことは一切気にせず、ただサッカーに集中するためだけにあえて寮を出たんだって言えば、平岡の復帰を認めてくれるかな」 「……で、実際に推薦もらえんのか?」  兵藤はどことなく羨ましそうな目で平岡を見た。 「まだ確定ではないけど、内々ではね」  平岡は当然だろう、と言わんばかりの表情をした。 「それより兵藤こそ進路はどうするつもり? まさか何も考えず、ひたすらサッカーすることだけ考えていたなんて言うわけはないよね」  思わぬ逆襲を受けた兵藤は席を立ち、分の悪い相手から逃げようとした。しかし、黒田が長い腕を伸ばして襟首を掴み、逃走を未然に阻止した。 「お前は本気でどうするつもりだ?」  黒田の真顔での質問に、兵藤が大声で吠えた。 「俺に学歴なんて必要ねえ。プロのスカウトがわんさか来るんだよ!」  志木と平岡が互いに顔を見合わせた。 「本気で言ってる?」 「どうやら本気みたいだね」  二人は、ほんのり哀れむような目で兵藤を見た。 「選手権でめちゃくちゃ活躍すれば、プロからお呼びがかかるだろ」  どこまでも楽観的な兵藤の発言に志木は尊敬の眼差しを向けた。 「本気で言っているから凄いと思うよ。でも大会で活躍したいなら、得点機をお膳立てしてくれるパサーがいてくれた方がなおさら心強くないかな」 「兵藤が土下座して、復帰して下さいって頼んでくるなら、しょうがないから復帰してあげてもいいよ」  今度は平岡が土下座を要求した。形勢逆転を確信したらしい平岡は、高みから嘲るような視線を兵藤に向けた。黒田に首根っこを掴まれたままの兵藤は、完膚なきまでに口論で叩き潰されたのがよほど悔しかったのか、唇をぶるぶると小刻みに震わせている。 「握手でいいよ。握手で。はい、平岡復帰おめでとう」  権丈は平岡と兵藤の手を無理やりに掴み、形ばかりだが握手を交わさせた。  兵藤は相も変わらず不満たらたらの表情を続けていたが、それが彼一流の照れ隠しのポーズであることは誰の目にも明らかだった。兵藤はわざとらしく、こほんと空咳をする。 「とゆーわけだ、テメエら。誰でもいいから平岡からレギュラーを奪え! 練習中から足を削れ! 殺せ! すべて俺が許す」  平岡との握手を振りほどくと、黒田の手から逃れた兵藤は椅子の上に立ち大声で叫んだ。 「兵藤がプロのスカウトにアピール出来るように、一試合でも多く選手権で戦えるように皆で頑張ろう。一緒に月まで走ろう!」  権丈は両足で歩ける喜びを今こそ噛みしめようと、松葉杖を高く掲げた。 「お前はさっさと怪我を治せ」  兵藤も松葉杖を一緒に持って叫んだ。権丈と兵藤が共に高く掲げた松葉杖は、まるで優勝トロフィーのような煌めきを放っていた。

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