洛陽の月
梅雨入り

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 こうして、洛陽高校サッカー部の夏のインターハイ予選はあっけなく幕を閉じた。まだ五月の声を聞いたばかりで、梅雨入りもまだだというのに洛陽荘には湿った空気が流れているようだった。  例年、夏の大会を最後に引退する三年生が半数程度はいるものだが、最後の負け方が負け方だったので、敗戦から三日経った今も、「受験勉強に専念するから部活を引退する」などとは言いだしがたい雰囲気があった。  主将が夏の大会を最後に引退した場合は、速やかに新主将を決め、冬の選手権を目指して新チームに移行するのが習わしだ。高校サッカーはだいたいどこの学校もそういうサイクルで動いている。負けることは一つの区切りだ。 「お前、引退する気じゃないよな?」  権丈が自室で左足の太腿にテーピングを巻いていると、兵藤が言った。まだ鈍い痛みは残るものの、試合後、控えゴールキーパーの志木がアイシングを手伝ってくれたおかげで一時の足が燃えるかのような激烈な痛みはひとまず消退した。 「ああ、そろそろ決めなきゃだね」  敗戦後、大葉監督は部員に練習を強要することはなかった。一週間のオフを言い渡し、三年生はその間に部活を続けるか引退するか、各々で身の振り方を決めて欲しいと言った。  東条圭は気でも遣っているつもりなのか、このところ眠るとき以外は三○一号室に姿を見せようとはしなかった。 「兵藤はどうするの?」 「あんな負け方しといて辞められるわけないだろ。続けるよ」  きっぱりと現役続行を宣言した。いつもながらに清々しい態度だった。 「黒田も続けるってよ」  兵藤が独り言のように呟いた。黒田はもう日課の筋トレを再開し、同室の小峰と共にポストプレーの自主練にも精を出している。その勤勉さには頭が下がる思いだ。 「志木君も続けるってさ。特進クラスで勉強大変そうなのに、すげーよな」  ボランチの平岡と同室のゴールキーパー志木は、学校でも難関大学を受験する特進クラスで平岡と机を並べる仲だ。平岡にとっては盟友にも等しい存在だ。 「平岡は辞めるかもしれねえ」  兵藤は三○一号室と隣の三○二号室を隔てる白い壁を見つめた。その壁の向こうにいるであろう平岡に「辞めるなんて許さねえぞ」と言っているような気がした。  だが三○一号室の隣は黒田部屋で、平岡と志木の部屋である三○三号室には繋がっていない。 「ヒラは特進クラスだからね。受験勉強優先なんだよ、きっと」  平岡が引退を決意するというのもまた理解は出来るつもりだ。  俺が月に導くと、あの日の平岡は熱弁を振るった。その言葉通りに最高のパスが来た。  ディフェンダーが横から迫っていたとはいえ、俺はそれを外したのだ。東条先輩ならきっと難なく決めていたはずだ。走り込んだのが俺ではなく圭だったら、ディフェンダーをするりと避けて、やっぱり同点に追いついたはずだ。  敗戦後、平岡は誰とも握手を交わさずにグラウンドを去った。あれはきっとサッカーと絶縁するというメッセージだったのだ。どんなに素晴らしいパスを送っても、ゴールひとつ決められやしない無様なチームメイトにほとほと愛想が尽きたのだ。 「志木君だって特進クラスなのに残るんだぜ。なんで平岡のクソ野郎だけ辞めるんだよ」  兵藤の憤りも理解は出来る。平岡が抜ければ、月まで導く司令塔ゲームメーカーはいない。チームの戦略を根底から見直す必要も生じるだろう。 「平岡にもいろいろ事情があるんだよ」  顔を真っ赤に紅潮させた兵藤は椅子から立ち上がると、部屋を飛び出していった。平岡の肩を持ったつもりはないが、兵藤の耳にはそう聞こえたのかもしれない。  しばらくすると、缶ジュースを手に持った圭が部屋へ戻ってきた。ここ数日、部屋に寄りつくことがなかったのでなぜだか久しぶりに会った気がした。 「兵藤先輩を止めなくていいんですか」  圭が白い壁に目を向けた。 「平岡先輩の部屋に殴り込みに行ったみたいですけど」  権丈は左足を引きずりながら歩き、三○三号室の扉の前で立ち止まった。  扉はノックするまでもなく完全に開け放たれていて、罵詈雑言らしき言葉を機関銃のように浴びせ続けている兵藤を意にも介さず、制服姿の平岡は学習机の上の私物を段ボールに詰め込んでいるようだった。 権丈が室内に足を踏み入れると、兵藤がようやく静かになった。 「足はどうなの?」  平岡は片付けの手を止めないままに言った。権丈と視線すら合わせようとはしない素っ気なさだった。 「志木君がすぐに処置してくれたおかげで痛みと腫れは引いてきた。歩くとまだ少し痛むけど」  暴風雨のような兵藤の襲来に気疲れしたのか、部屋の奥にちょこんと座っている志木が困ったような顔をして笑った。 「志木君、その節はお世話になりました」 「いえいえ。権丈君はまだ痛みがあるなら、ちゃんと病院で診てもらった方が良いよ。たんなる打撲でも案外長引くことがあるから」  志木は権丈の左足に視線をやった。 「ありがとう。もう少し様子見てから病院に行くか考えるよ」  権丈は平気だと言わんばかりに、その場で二、三度ジャンプして見せた。だが、両足で着地した時に全身を貫くような鋭い痛みを感じた。権丈は思わず顔をしかめた。 「お前はさっさと病院に行け」  志木の隣に腰を下ろした兵藤が権丈に忠告した。 「打撲って一週間ぐらい経てば、勝手に治るものじゃないの」 「骨折とかしてなきゃね」  平岡がさらりと言った。教科書類を段ボールに詰め終えると、学習机からほとんどの私物が消えた。 「折れてはいないと思うけど」 「じゃあ、しばらく様子見でいいよ」  段ボールにガムテープを貼りながら、平岡が答えた。 「平岡は寮を出るの?」  権丈は声を荒げることもなく、いつもと変わらぬ調子で尋ねた。 「もともと夏までのつもりだったからね。監督にはもう伝えてある」 「そっか。寂しくなるね」  荷造りを終えた平岡は、ようやく手を休めた。 「監督はなにか言っていた?」  権丈が問うと、平岡は小さくかぶりを振った。 「考え方は人それぞれですし、平岡君が熟考して決めたことなら、私に止める権利はありません……だって」  黙して語らぬ平岡に代わって、志木が答えた。 「月まで導くんじゃなかったのかよ。大会前にそう言ったよな」  今生の別れのようなしんみりした雰囲気に怒りがぶり返してきたらしい兵藤は、段ボールを両手に抱え部屋を出ていこうとする平岡に向かって叫んだ。 「……言った」  平岡は振り返らなかったが、扉の前で立ち止まった。 「最後まで倒れずに月まで走れるか、たしかそうも言ったな。一緒に月まで走りましょう、部員全員の前でお前はそう言ったよな」 「そんなのよく覚えているね」  平岡はこちらに背を向けたままだったので表情は窺えなかったが、抑揚のない冷たい声だった。 「なのに、お前だけ敵前逃亡か。一緒に月まで走るんじゃなかったのかよ」  兵藤の声はとうに熱を失い、引き止めることを諦めたようだった。 「今は何を言っても無駄だろうけど、俺は最初から夏までのつもりだった。こんなに早く負けるとは思っていなかったけど、もとからそういう計画のつもりだった」  平岡は最後までこちらを振り向かずに三○三号室を後にした。 「悪く思わないでよ。じゃあ、またね」

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