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 彼女は地下ガレージに着くと明かりを点けた。実用と観賞用の高級車を分けて、かつては車が二台置いてあったガレージ。今では彼女が買い物の際に使用する自転車や、隅の方で申し訳なさそうに置いてある、使い古しの洗車用具くらいしかそこにはなかった。車二台分を置くスペースとしてはやや狭かったこのガレージ。だが、今では充満する空気すらも持て余すような空間が広がっている。  少し緊張した面持ちで、樫の木で作られたワイン・カーブのドアの前に彼女が立つと、無意識にノックをしようとしてしまった。ノックしようとした右手を、どうしてか彼女は慌てて左手で覆うように下ろした。そして、一度息を吐いてからドアの鍵を差し込む。すると鍵穴、鍵を通じて冷渋した涼気を覚えた気がした。だが、扉を開けると思ったほど部屋は涼しい気配はなかった。明かりのスイッチを点けると、蛍光灯が頼りなく発光した。 「そうよね。ここの空調設備はもう動いてなかったんだわ」  自身に納得するように説明的な口調で彼女は言うと、六畳ほどの広さのワイン・カーブを見渡した。レンガ造りの壁の周りには、木製のワイン・ラックが彼女の頭の高さぐらいまで、五段に仕切られて囲ってあった。だが、肝心のワインはそこに置いてない。無論、それは借金返済のためワインを売り払ってしまったからだ。ワインを保存するための部屋に、主役たるワインが存在しない。先のガレージに車が存在しないように。  彼女は改めてこの家が形骸化していく事を認識した。 「何も間に合ってなんかいないわ」  捨てるように早口で彼女は呟く。すでにワインはここにない。それが象徴的な幕引きい彼女は感じた。  私はここに彼の残像があるとでも思ったのかしら。だとしたら、馬鹿みたい。言い訳ばかりして。  このワイン・カーブで改悛の情を感じようと思ったのか。彼女は強引に心の棘に当たろうと試みる。行き違った過去に。そして、ただ心の隙間風が駆け抜けていくだけになるであろう、なお続く長い明日に。  彼女が息を吸うと、薄暗い部屋の中では乾いた匂いばかりが鼻についた。  考えてみれば不思議なものね。自分の家で一度も入った事のない部屋があったなんて。今思えば彼に頼んで、一度くらいここを覗かしてもらっても良かった気がする。それにしてもおかしいのは、今まで一度も入った事のなかったこの部屋に、何も新鮮さを覚えないこと。神秘的とは言わないまでも、ちょっとした感慨があってもいいと思うんだけど。  確かに初体験の感じではなかった。既視感にも似た懐かしい気分でもない。この部屋はすでにそこに在った。それだけが彼女の頭に巡っていた。彼女がラックの縁を人差し指で擦ってみると、思ったほど埃は付かなかった。 「一体ここにどれ位のワインが置いてあったのかしら」  この部屋にどれだけのワインがあったのか。このラックいっぱいにワインは埋まっていたのだろうか。しばらく彼女はそんな想像をしてみた。 想いにふけた後、彼女はワイン・オープナーを探そうとしたが見つからなかった。しかし、小さな金属製の箱の上にコークスクリューがあった。ワイン・オープナーの代わりにコークスクリューを手にすると、その下の金属の箱の方に彼女の目がいった。  それはワインセラーだった。そのワインセラーはまだ機能しており、開けてみると冷気が流れてきた。中は五段に上下が区分けされていて、三十本近くのワインが寝かされて入っていた。だが、よく見ると最上段とその下の段のボトルは空になっていた。また、中にある全てのワインに札が括ってある。彼女はその中の半分ほど空いたワインを手に持ってみた。それはブルゴーニュの赤で、銘柄は「シャンベルタン」。弱々しい光の中でそれは紅玉の艶を浮かばせた。シャンベルタンに括ってある札には日付が記されてあった。最初はワインの製造年月日等ではないかと彼女は思った。だが、〈~二人の結婚記念日に〉と札の隅に添え書き程度の書き込みがあるのに気づくと日付を確認し、このワインは結婚記念日飲んだものであると思い出した。  ああ、これ。あの時の結婚記念日に飲んだものだ。ちょうど彼の事業が波に乗り始めた時期。あの晩はお芝居を見に行ったんだ。確かシェイクスピアの「真夏の世の夢」だったわ。私の好きな演出家の人だったし、出演者も著名な人ばかりだったけど、大雑把な印象ばかりが多くて、テレビでも見ているような一方的な芝居だったような感じがして、損をした気分になったんだ。彼にそんな風にグチをこぼしていたんだっけ。その後に例の如く彼がワインを開けたんだわ。「分かっていたけど、やっぱりまたワインなの?」と私が尋ねて彼が、「つまらない劇を見ても、ワインを喉に通したら溜飲が下がるさ」と答えた。私がまた、「そんな事言ってあなただってほとんど飲めないのに」と返して、「それを言うなよ。気分が損ねるからさ」と彼が言って……その夜の朧な言葉と場面を想起した。少し踵が高かった買ったばかりのヒール。珍しくベストを着込んだ夫。毎度のようにワインはあまり飲む事はなく、結局はフランス・パンで散らかったテーブル。彼女がゆっくりと記憶のフラグメントを拾い始めると、それは額縁に飾れるような鮮やかな思い出の画になった。 「飲んだ。僅かだったけど、確かにこのワインはかつて飲んだんだ」  彼女はシャンベルタンを握りながら、力強く確信を込めた言葉で言った。  そして、他のワインの札を見てみると、同じように日付が記してあった。結婚記念日に飲んだワイン。誕生日に開けたワイン。旅行をした時に口にしたワイン等々。記念日になるような日、思い出になるような夜に飲んだワインがここにはあった。二人のシーンに添えてあった、二人だけのワインが。今まで彼女が夫と一緒に飲んできたワインは、二人ともお酒が弱かったのでいつも残ってしまった。だから彼女は残ってしまったワインは、夫が連れてきた会社の同僚や友人たちと一緒に飲む際のお酒になっていたと思っていた。しかし、ワインはまだここにあったのである。夫は一人でこれらのワインを少しずつ飲んできたのかも知れない。そんな直感が彼女に走った。  コレクションで集めたワインは、仕事や遊びを介して他の人たちと飲んでいたが、二人のワインはそうではなかった。  私には記念になるような日以外、夫はワインを勧めなかったから、残ったワインは一人で飲んでいたのね、きっと。私と同じくらいお酒が弱いくせに。 彼女はうつむいて下唇をかみ締めた。そして、数本ある空のボトルを見つめた。 「空のボトルまで残して」  空のボトルにもそれぞれ札は括ってあった。彼女は持っているワインを元に戻し、最上段の左端の空のボトルを手にした。そのボトルのラベルにはアンジュー・ブランと記されてある。そして、札には日付とともに〈~初めてのデートの日に〉と書いてあった。 「そうだった」  聞こえないくらいの途切れがちな声で言うと、クリーム・チーズの片割れを思い出した。それは大事な片割れだった。  注意して見るとワインは最上級の左端から右下に進むにつれて日付が新しくなり、また徐々に値段が高くなっていた。最下段にはシャトー・ディケムやモンラッシェ、ロマネ・コンティ等の高価な空のワイン・ボトルがひしめいている。アンジュー・ブランは家を建てる前の、事業を始める前の、そして、結婚する遥か前に飲んだワインだった。  それは二人で肩を寄せ合い、体を温めあった貧しい頃。  やがて彼女はワイン・カーブを出て、ダイニングへ戻った。冷蔵庫に入れていたアンジュー・ブランを取り出すと、時計の針は昼の十二時を回っていた。 「さあて、まだ昼間だけど飲んじゃおうかな」  明快に声を張ると、慣れない手つきでコークスクリューを扱い、アンジュー・ブランのコルクを抜いた。  白ワインとロゼは早めに飲んだ方がうまいんだよ。  そんな夫の言葉を頭の中で彼女は見つけた。まだまだ記憶の欠片がうまっていきそうだ。そんな予感が走る。不意に胸が躍る。  グラスの半分ほどにワインを注ぐ。彼女はテイスティングの真似をしてみようと、香りを楽しみグラスの脚をつまんでワインを回してみた。薄暗い部屋の中で、梨色に映るワイン・グラスを黙って見つめていると、雨音が庭から少しずつ鳴り始めた。  今日の雨は強くなりそうだ。  彼女は外を見もせずにその兆しを覚える。そして、ゆっくりとグラスを口に近づけて、懐かしい色をしたワインを喉に通した。不思議とお酒を飲んだ際に感じていた、鼻にさすような痛感がなかった。  このワインには温度がある。  彼女は人肌に近い温もりを感じていた。また、もう一度このお酒を彼と一緒に飲めていたら、どんなにおいしかっただろう、とも。  彼はいつも先ばかり進もうとした。人の話も聞かず周りも見ないで。それが彼の悪い所で欠点だった。だけど、そんな彼を私は好きだったんだ。そうだ、大好きだったんだ。恥ずかしいくらい少女のような乙女心を募らせて。  閉じた瞼がその想いを焼きつけると、彼女はグラスに注いだワインを一気に飲み干した。すると無機質なダイニングに彩りが広がっていく気がした。額縁の飾ってあった黒枠の跡にも、溢れるほど敷き詰まって。  すると、彼女が先ほどまで抱いていた、予感、が朧げに再び脳裏に浮かび始めた。  これから私に、悲しみ、がやってくる、と。  悲しみからの解放ではない。悲しみとの別れでもない。それはようやっと迎える悲しみの始まり。心から望んでいた悲しみとの出会い。 しばらくしたら止め処なく残酷で絶望的な悲しみに襲われて、私はとても立ち直れない気持ちに苛まれるだろう。  彼女はベランダの外で降る、滂沱(ぼうだ)のような雨を眺めながら、そう胸に慕らせた。  だが、彼女は一方で想う。これから来るべき悲しみは、生涯の中で記憶に残しておきたい気持ちだと。  彼女はそのように願う。  ただ痛切に。  そして、テーブルのアネモネが雨の日の蒼い匂いと混ざり、柔和な芳香を漂わせる頃。霞むような早春の薫りに隠れて、彼女の瞳から「……happy birthday!」と書かれたカードに一片の光が零れた。 了
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