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 ヴィーク家の新しい日常がすべりだした。楽器・楽譜の商いはすっかり手慣れた妻が担い続けた。ピアノレッスン希望者がどんどんやってくるので、ヴィークの店は大賑わいである。  変わらない日課は、午前のヴィークによるクララのレッスンと午後の散歩、それから音楽関係者が集う水曜音楽会である。どれもクララのため、主役はクララだ。  モーリッツも再開した水曜音楽会にやってきて、クララの演奏でロベルトの『蝶々』を聴いた。 「すごいな、君の『蝶々』をもう弾けるんだね。ぼくは四苦八苦して練習中だよ」  晴れ晴れとした表情でロベルトは言った。 「ぼくはピアニストを諦めてよかったよ。こんなに身近に立派な芸術家がいるんだから、ぼくはクララに弾いてもらえるように作曲をがんばるよ」  これまで心配してきたモーリッツに、安堵の表情が広がった。 「やっと『脱皮』できたようだな」  ロベルトは深くうなずいた。 「そう言えば、クララのさなぎの時代を知らないな。最初に出会ったときから、完璧なピアニストだったよ」  長身のふたりが話し込んでいると、下方から少女の声が届く。立って話すには、無理がある身長差だ。 「わたしがどうかした?」 「君の演奏がとても素敵だったと話していたところだよ」 「だって曲が良いんだもん。もっとたくさん作曲してね。ピアノはわたしに任せて新しい曲は必ず弾かせてね。ロベルトさんの右手の代わりをするんだから。ね?」  ピアノから離れればおとなしい少女に戻るクララが、けなげに九歳も年上のロベルトを励ましている。 モーリッツはこの光景をいつまでも忘れなかった。

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