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◇  半年に及ぶ演奏旅行から、師匠ヴィークと娘のクララは帰宅する日がついにきた。出迎えたのは師匠の二番目の妻と息子たち。演奏旅行中に生まれたヴィーク家の三か月になる女の子。それに、近くに住むロベルトも知らせを受けて駆けつけた。  長旅で疲れているはずだが、演奏旅行が成功裏に終わったことで父娘ともども充実感に満たされていた。クララは少し背が伸びたようで、やせて見える。ロベルトは彼女の目に優しい輝きを感じた。  ヴィークはみなに土産話を面白おかしくしゃべり続けた。クララがいかにピアニストとして成長し認められたかについて、ヴィークの教育の成果でもあるから、胸を張って語った。場数を踏み著名人たちから評価されたクララは今や国際的スターである。  ロベルトは素直に成功を喜んだ。ずいぶん遠い世界の人のようだ。目の前にいる小さな女の子からは想像もつかないけど。確かにクララは認められるべき神童だ。ただ、同時に胸を張れない今の自分の状況をいっそう辛く思うのだった。  指の故障をもう黙ってはいられなかった。ロベルトは意を決して作品1と2の出版譜を抱え、ヴィークのところへ出向いた。師は弟子の仕事を眺め満足そうに言った。 「留守中にも作曲に励んでいたようだな。おおいに結構」 「ありがとうございます。あの、実は先生に話さなければならないことがあります」 「何だ? 改まって」  眉根を寄せてヴィークはロベルトをうかがった。 「右手の指を故障してしまいました。せっかく弟子にしてくださったのに、ご恩に報いることができず……申し訳ありません」  広げた弟子の右手をじっと見つめた師は、しばらく何か考えているようだった。そしてポツリと言った。 「そうか。治る見込みはないのか」  ロベルトはうなだれた。 「残念だが仕方あるまい。しかし、ロベルト、教えることぐらいはできるだろう。弟子入り希望が殺到している。クララの名声のおかげだ。今後は演奏会が増えるからそのための段取りでわしは多忙でな」 「新しい弟子の下稽古とそれから、もう一つ頼みたいことがある。クララは作曲に乗り気にならんで困っておる。幸い君は作曲の腕をあげたことだから、その力を発揮するのも悪くないだろう? 時間があればここへ来てクララを手伝ってほしい」  大目玉を食らわずホッとしたロベルトだが、今度は情けなくなった。  ヴィークの関心はすべてクララなのだ。クララさえ成功すれば、弟子は増える楽器や楽譜も売れる。あとのことは、妻と使用人と弟子にまかせっきりにしたいのだろう。

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