蝶々

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 モーリッツとはたびたびここへ足を運ぶ医者兼ピアノ弾きのことで、大家夫人の知った顔だ。ロベルトと同じ師匠のもとで音楽を習ういわば弟子仲間である。  ゆえに、モーリッツはロベルトがピアノの上達を焦る気持ちを理解している。母親の反対を押し切って、音楽家になるべく欧州に名を響びかせる師匠の弟子になった。二十歳を過ぎていたが師匠としては見込みありと引き受けてもらえたのだった。  大学の図書館の戸口で、学生と談笑する鉛筆のようなモーリッツを見つけた。ロベルトは手を振って駆け寄った。 「ロベルト、何を慌てているんだ? まあわき目もふらずやってくる時点で察しはつくが。どこか具合が悪いのか?」 「それが……指を痛めたんだよ」 「……指? な、なんだって? ゆ、指をか?」 「ああ、そうなんだ。この間手に入れた『無音鍵盤』でここ一週間ずっと右手ばかり練習していたんだ。演奏旅行からヴィーク先生たちが帰ったら驚かそうと思って」 「あの鍵盤で? ピアノではなく? 今さっき、その話を医学部の奴らとしていたんだ。どうやら売りつけたのは金目当ての相当怪しい奴みたいだ」 「何だって?」 「早く上達したい気持ちにつけ込む悪い奴らめ。許せん」 「くそっ。何てことだ。頭に来るがそれよりも指だ。治るよな? 何か良い方法はないか?」 「友だちだから率直に言わせてもらうが、わからないな」 「そうか……だよな。君はいつもぼくのことを思って言ってくれる」 「ただ、ぼくだってダテに医者をやっているわけじゃない。最善を尽くすことを約束する」 「ありがとう。その言葉でぼくは孤独から救われた。本当にありがとう」

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