蚊の存在感に勝てない
蚊の存在感に勝てない

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 最近、気になる人がいる。彼の名前はトクラさん。徳良と書いてトクラと読む。トクラさんはバイト先の先輩だ。年は私の一つ上で、二十一歳の美大生。バイト先は居酒屋で、トクラさんはキッチンスタッフ、私はホールスタッフとして働いている。  トクラさんは背が高い。ひょろっとしていて、猫背だ。パーマなのかくせっ毛なのかわからないけど髪がカールしていて、いつも毛先がぴょこんと跳ねている。垂れ目でいつもぼんやりした目付きをしているトクラさんは、仕事ができない。金曜日や土曜日の一番忙しい時間帯に戦場のような厨房の中であたふたと動き回って「あれ、これでいいんだっけ?」とか、「やばい、忘れてた」とか言っては他のキッチンスタッフに怒られている。バイト仲間の男の子達から「クラ」と呼ばれているトクラさんは、所謂いじられキャラだ。でも本人は全然気にしていなくて、他の男の子が笑いながらからかっても、反論も迎合もせずにぼんやりした目で笑って聞き流している。厨房の中であたふたしたりぼんやりしたりしているトクラさんを見る度に、なんかこの人ちょっといいな、と思っていた。    バイトを始めて一ヶ月が経った頃、私を含め同じ時期に入ったスタッフ三人の歓迎会が開かれることになった。店長含め社員もバイトも勢揃いして固い空気で始まった飲み会が、社員達が途中で帰った途端に一気に砕けたものに変わった。バイトのメンバーはほとんどが大学生で、数人フリーターもいたけれど皆二十代前半だ。セーブを知らない飲み方でどんどん酔っ払ってうるさくなっていく男の子たちと、きゃあきゃあ騒ぎながらそれを煽る女の子たちから少し離れて、トクラさんはやっぱりぼんやりした目で笑いながら、マイペースに緑色の液体を飲んでいた。    下ネタで盛り上がっている皆の話に飽きた私は、自分のグラスを持ってトクラさんの隣に移動した。 「それ、なに飲んでるんですか?」 「これ?抹茶ハイ」  トクラさんがちらっと私を見て答える。 「抹茶ハイ。美味しいですか?」 「べつに、普通かな」  そういえば、一対一で話すのは初めてだ。ちょっと慣れ慣れしかったかもしれない。でももう座っちゃったしいいや、と思って若干怪訝な彼の表情には気付かないふりをする。 「みんな、盛り上がってますねー」 「そうだねぇ」 「あ、そろそろグラス空きそうですね。次は何にします?」 「えーと、同じのでいいかな」 「じゃあ一緒に注文しちゃいますね」  ちょうど通りかかった金髪の店員に「抹茶ハイを二つ」と声をかけた。 「えーと、ごめん、何さんだっけ?」 「萩野です。ちなみに下の名前はシノです」 「ハギノシノ。なんか語呂がいいね」 「よく言われます」  トクラさんは何度かハギノシノ、ハギノシノ、と呟いてちょっと微笑んだ。単純に語感を楽しんでいる感じで、私のフルネームを連呼している意識は無さそうだった。やっぱりこの人ちょっといいな、面白い。  この機会に色々話してみたい、と画策しているところへ抹茶ハイが来た。店員から受け取ったグラスの片方をトクラさんに渡す。 「カンパーイ」  一方的にグラスを合わせて、抹茶ハイを飲む。飲み込んだあとも舌にザラッとした苦味が残り、あんまり美味しくない。トクラさんは平気な顔でスイスイ飲んでいる。 「あぁ、そうだ。ハギノさんは、お酒飲んでいいの?」 「え?なんでですか?」 「未成年なんじゃない?」 「ハタチですよ。なりたてですけど」 「そうなんだ。誕生日おめでとう」 「いや、さすがに今日じゃないですよ」 「あぁ、そっか。ごめんね」  徐々に会話が進むようになったが、トクラさんはずっと抹茶ハイを見つめていてなかなか目が合わないし、やっぱりぼんやりして見える。なにか話題はないかと考えて、トクラさんが美大生だったことを思い出した。 「トクラさん、美大生なんですよね。絵を描いてるんですか?」 「うん、そうだよ。あ、でも、油絵とか日本画とか、そういうのじゃないんだけど」 「へぇ、どんなの描いてるんですか?」 「うーん、説明が難しいんだけど、イラストに近いかな」 「えー、見たい。写真とかないんですか?」  トクラさんは、写真かぁ、と言って俯いた。ちょっと踏み込み過ぎたかなと思う。酔っているのかもしれない。 「あぁ、あるな。撮ってるわ」  そう言うと、トクラさんはポケットからスマホを取り出した。俯いていたのは、思い出そうとしていただけだったみたいだ。 「はい、これ。こういうの描いてる。」  差し出された画面を覗き込む。なんだかよくわからない絵だった。人と、動物と、色んなモノが混ざり合っていて、それがものすごく細かく色分けされてある。色ってこんなにたくさんあるんだ、と感心してしばらく眺めた。なんだかよくわからないけれど、好きだと思った。だからそれをそのまま伝えた。そうしたら、トクラさんの顔が一気にほころんだ。ぱあぁっという効果音が聞こえてきそうなその笑顔が、発光して見えた。ふいをつかれて、思わずじっと見つめてしまう。初めて見た、トクラさんの全開の笑顔。 「ありがとう」  言いながら、次々他の写真を見せてくれるトクラさんは、私が見惚れていたことに気がついていない。急に饒舌になった彼が画面を指しながら楽しそうに解説してくれるのを、反比例して無口になった私がうんうん頷きながら聞く。トクラさんの横顔を盗み見るたびに、心臓の音がうるさくなっていく。これが『きゅん』か。やられた、と思った。ちょっといいな、が、この人が好き、に変わっていた。  好きだと思ってしまってからは、もう駄目だった。ついさっきまであんなに馴れ馴れしく話しかけられたのに、全然言葉が出てこない。作品の説明が終わってしまうと、途端に会話が途切れだした。トクラさんはまた、ぼんやりした目に戻ってしまっている。 「ごめんね、なんかちょっと、話しすぎた」  私はぶんぶん頭を横に振った。 「そんなことないです。すごく好きです」  あなたの描く絵も、あなたも。と心の中で付け足す。 「ありがとう」 「こちらこそ、見せてくれてありがとうございました」  トクラさんがぼんやりのままちょっと微笑んだところで、騒いでいた集団から「二次会行くぞー!」と叫ぶ声が聞こえた。  トクラさんが二次会には行かないというので、私も帰ることにした。皆と別れてなんとなく並んで歩く。 「ハギノさん、電車?」 「いえ、私は自転車です」 「そうなんだ」 「トクラさんは?」 「俺は電車だよ」 トクラさんの『俺』は、なんだか甘く響く。 「自転車どこに置いてるの?」 「公園の近くの駐輪場にあります」 「じゃあ駐輪場まで送ってくよ」 「え!そんな、悪いですよ」 「いーのいーの、どうせ駅の方だし」  また、心臓がきゅっとする。嬉しくて飛び跳ねたくなって、やっぱりちょっと酔っているのかな、と思う。    公園の入り口に差し掛かったところで、トクラさんが立ち止まった。 「ちょっと休憩して行かない?」 「え、公園ですか?」 「うん、なんか俺、けっこう酔ってるみたい」  なにこの人、可愛い。どうしよう、嬉しい。頭の中は少女マンガのヒロインみたいになっていたけれど、精一杯平静を装って答える。 「いいですね、酔い覚まし。私もちょっと座りたいです」  二人でベンチに座って、トクラさんが自動販売機で買ってきてくれた緑茶を飲む。 「トクラさん、お茶が好きなんですか?」 「別に好きじゃないけど、あれ、お茶じゃない方が良かった?」 「いえ。さっきも抹茶ハイだったから、好きなのかなって」 「あぁ、言われてみれば。てか、酔い覚ましには水の方が良かったね」 「大丈夫です。私は好きですよ、お茶」  それは良かった、というトクラさんが、すぐ隣でのほほんとしている。近い。また心臓がうるさくなる。そうだ、連絡先を聞かなきゃ。でも、なんて言おう。  バイト先の連絡グループに、トクラさんは入っていない。驚くべきことに『なんか嫌』という理由で、のらりくらりかわしているのだ。そんな人が連絡先を教えてくれるだろうか。でも、聞いてみないとわからないし、などとぐるぐる考えていたら、隣で脱力していたトクラさんが急に身体を起こした。 「うわ、かゆい。蚊がいるよね?」 「え、刺されたんですか?」 「絶対刺された」  言いながら腕を掻きむしっている。私が次の言葉を探している間もきょろきょろと辺りを見回していたトクラさんが、ついに立ち上がった。 「ダメだ、逃げよう」 「あ、はい、そうですね」 公園を出て、トクラさんは腕を掻きながら駐輪場まで送ってくれた。 「あーかゆい。ハギノさんは刺されなかった?」 「私は大丈夫でした」 「良かった。なんかごめんね、俺が誘ったのに」 「いえ、大丈夫ですよ」  連絡先を教えてくださいの一言が言えないまま、駐輪場に着いてしまう。 「送ってくれてありがとうございました。あと、お茶も。ありがとうございます」  あの、と言いかけたところに、トクラさんの言葉が被る。 「止まってると、蚊に刺されるかもしれないから気をつけてね」  彼の笑顔に、またやられてしまって、きゅんとなった私は結局言えない。 「はい。トクラさんも、気をつけて」 「うん、付き合ってくれてありがとうね」  バイバーイ、と手を振って、トクラさんは行ってしまった。立ち尽くしたまま自転車のハンドルを力いっぱい握り締めて、溜息に声をのせて吐き出す。 「はあー」  そのまましばらくトクラさんの笑顔を反芻していたら、耳元でプ~ンという嫌な音がした。慌ててブンブン手を振り回し、自転車を押して小走りで駐輪場を飛び出す。一気に現実に引き戻された私は、再び溜息をついた。    ああ。蚊の存在感に勝てない。

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