晴耕雨読に猫とめし
犬がタッチアンドゴーした話

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先週、子犬が我が家にやってきました。 本当はもっと早く来るはずが、「さあ、出発するよ」というときになって、「右後ろ足を引きずっている」ことがわかり、延期になっていたのです。 先方のかかりつけの獣医さんの診断は「右後ろ脚骨折」。可哀想に、と気を揉みながら10日あまり待った末の、待望の出会いでした。 保護施設の方がクレートを分解するまで縮こまって動かず、外に出たと思ったら座卓の下にダッシュで逃げ込むような、ビビリな子犬。 初めて子犬を見たときの私の感想は、「かわいい」ではなく、「でかッ」でした。 ココア色の、頭部だけが妙にふかふかした毛並みのその子犬は、とても太くて立派な前脚を持っていました。 怯えすぎて、触られても撫でられても、まん丸な目を落っこちそうに開いたまま、うんともすんとも言わない子犬を見ていると、こちらも心配になってきます。 ですがとりあえず、仕事部屋に用意したケージに移動してもらうことに成功し、お互いにホッと一息。 子犬にとっては、ケージは閉じこめられる場所ではなく、自分ひとりの安心できるスペースというイメージらしく、そこに入れて扉を閉めると、ようやく震えが止まりました。 よ、よかった。 一緒になって動揺していた私も、少しだけ落ち着きを取り戻し、まずは水をたっぷり用意。 買っておいた小粒の犬用ボーロも、手からは無理でも、シートに置いたら躊躇いながら食べてくれました。 ウェルカムドリンクと茶菓子の提供、完了。 その日は、長旅で車酔いもあったので、子犬は夜までケージで過ごしました。 翌日、相変わらずビビリながらも元気を取り戻し、ごはんをモリモリ食べるようになった子犬を実家につれていき、両親に対面させたら、二人とも大喜び。 ちょっと喜び過ぎてテンションが空回りし、母などはたちまち疲れて寝こんでおりましたが、よい刺激ではありました。 さあ、ご近所探索を兼ねて、散歩に行こ……うん? そこで私は、ある問題に突き当たりました。 出会った直後に既に気になったのですが、怯えて腰が引けているせいかな、と様子見をしていたのです。 でも、やっぱり……歩き方がおかしい。 骨折したと聞いた右後ろ脚の動きが不自然だし、ときおり、ヨタッとしている。 骨折、まだ治ってないんじゃないの? あるいは、自動車で長旅の最中、脚を踏ん張って悪化させたのでは? 私は慌てて子犬を抱き上げ、動物病院に向かいました。猫たちがいつもお世話になっている、優しい先生です。 先生は子犬を歩かせ、子犬に触れ、レントゲンを撮り、断言なさいました。 骨など折れてはおらぬ、と。 先生が仰ったのは、「この子は生まれつき、後ろ脚の関節に弱さがあります。形成不全と言うほどではないし、今、治療が必要なわけでもないですが」ということでした。 私は混乱しました。 治療が必要ない? だって、こんなにヨタヨタしているのに? その疑問に対しては、先生はクリアな答えをくださいました。 先方の獣医さんが骨折と診断し、安静を指示していたので、子犬はうちに来るまでの間、ずっとケージに入れられたままでいたそうです。 そのせいで筋肉が一時的に痩せてしまい、安定性がことさら悪くなったのだろうと。 少しホッとした私ですが、その安堵は数秒しか続きませんでした。 先生は続けてこう仰ったのです。 「治療は要りませんが、飼い主さんと犬には、今すぐ始めないといけないことがあります。それをやらないと、この子は将来的に歩けなくなる可能性が高い」 ヒッ。 それは、何ですか? 青い顔で訊ねた私に、先生はきっぱりとおっしゃいました。 「運動です。それも、かなりの運動量。賢い犬は不自由な脚を庇いますから、敢えて後ろ脚を使わせることを意識した運動も必要です。後ろ脚の弱い関節を、バキバキに鍛えた筋肉で鎧のように守るんです」 あー! それ、知ってる! 私も数年前、とんだ貰い事故で、右膝の靭帯を3本傷め、1本は完全断裂したことがあります。 その際、もろもろ考慮すると、切れた靭帯は敢えて手術しないほうがいいかもしれない……という主治医の助言に従ったのですが、そのとき、同じようなことを指示されました。 「毎日、運動とストレッチ、必要ならマッサージを続けてください。それによって筋肉量を保てば、不安定さのある膝関節を支えることができます」と。 同じだ、わかるわかる! 即座に理解できたのはいいのですが、現実はあまりに厳しいものでした。 先生から提示された「子犬が必要とする運動」は、その、膝の靭帯が足りず、もはや横断歩道を急いで渡る程度の「小走り」しかできない私には、困難を通り越して、もはや不可能な内容なのです。 どうしよう。 私では、この子に頑丈な後ろ脚を与えてあげることができない。 子犬を抱いて駐車場に向かう途中、ボロボロ涙が出ました。 子犬と出会って、翌日には絶望。なんでやねん。 お腹に悪い菌がいたこともあって通院は持続しつつ、私は藁にも縋る気持ちで、セカンド、さらにサードオピニオンまで貰いに、他の動物病院を回りました。 かかりつけの先生を信頼していないわけではまったくなく、ただ、何らかの打開策が他にないか……そんな切実な思いがあったのです。 でも、他の先生のご意見も、ほぼ同じでした。 諭吉には羽が生えて次々と飛び去っていき、私のみぞおちには対照的に不可視の石が詰まっていくような日々が続きました。 冷静に考えてみれば、今、積極的な治療が必要ではないというのはよい情報です。 筋肉を育てさえすれば克服できる程度のハンディであろう、ということも、子犬にとっては大きな希望です。 でも……でも、私と一緒にいては、そのために必要な運動を達成できない。 私の姿が見えないと呼び鳴きし、ひとりで寝かせようとするとピスピスと夜鳴きする子犬の声を聞くたび、こんなに頼ってくれているのに、私ときたら、と、自分の不甲斐なさに泣けてきます。 どうしたらいいんだろうと悩みすぎて、食べられない、眠れない日々が続きました。 とはいえ、悩んでいてもどうしようもないのです。 できないものはできない。 どんなに努力したところで、私には、子犬と一緒に駆け回れる膝は二度と戻ってこない。 ならば、結論はひとつです。 手放すしかない。 ただし、保護施設にお返しする選択肢は、私の中にはありませんでした。 この子犬にとっては、これから半年ほど、つまり残りの成長期が、将来のQOLを決める大切な時間です。 たくさんの中の1匹ではなく、この子に強くフォーカスして、しっかりとケアしてくれる人の手に渡したい。 思いつくのはただふたり、弟夫婦だけでした。 弟宅には、同じ施設から来た犬がいます。犬仲間がいたら、一緒に遊ぶことで運動量が上がるでしょう。 弟は身体が大きく、タフな男です。嫌になるほど走らせ、遊んでやることもできるでしょう。 でも、犬は1匹でもお世話が大変。2匹なんて……しかも後ろ脚が弱い子なんて、嫌だろうなあ。私なら、断っちゃうかもな。 そう思いつつ、恐る恐る連絡して切り出すと、弟は「全然ええけど」と、驚くほどの軽やかさで引き受けてくれました。 弟、そんなに男前だった? 驚きつつも、思いがけずありがたい返事です。 ただ、弟夫婦と、何より弟宅の先住犬と仲良くできなければ、どうにもなりません。 祈るような気持ちで、私は子犬を弟宅へ連れていきました。 そうしたら……! 最初こそガタガタ震え、弟夫婦にも、身体の大きな姉となる犬に怯えていた子犬ですが、家に入ると、自分でもちょっと意外そうな顔をしながら、尻尾を上げて探険を始め……そして、弟宅で、新人犬がまず使うという素敵なベッドに、我が物顔で座りました。 義妹は「かわいい」を連発しながら子犬を優しく撫でまわし、弟は、姉犬と子犬を並べて、さっそくおやつを食べさせ始めました。 子犬はしっかりおやつを食べ、姉犬と、続いてそろそろと近づいてきた弟宅の猫と鼻先で挨拶を交わし……。 ああ、なんだか、とてもいい感じです。 この子は、ここで生きるべきなのだ、ここで幸せになれるのだ、と確信できたそのとき、ストンと腑に落ちました。 なるほど、今回の私の役目は、子犬の飼い主ではなかったのだと。 理不尽な死が迫っていた命をこの手でいったん引き受けて、この子の将来にかかわる問題点を見つけ、それを解消できる人たちの手に繋ぐ。 それが今回のミッションだったんだな。 そして、私はどうにか、それをやり遂げることができたんだな。 そう思ったら、寂しさよりも、嬉しさと、引き受けてくれた弟夫婦への感謝が先に立ちました。 もちろん寂しいけれど、よかったなあ、と今はしみじみ思います。 私が弟宅を辞してものの2時間ほどで、姉犬とじゃれ合う子犬の動画と、疲れて眠る子犬の写真が送られてきました。 もう、大丈夫。 子犬が来てから弟に託すまでの10日間、何を口に入れても砂か粘土でも噛んでいるようでしたが、子犬の幸せが確信できた途端、久しぶりにお腹が空きました。 ただ……玄関に残る、泥足で上がり込んできたときの子犬の足跡ひとつだけは、自然に消えるまで放っておこうかなあ。 そんなちょっとだけの未練を、今はほろ苦く噛みしめています。

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