屋敷の主は、その様子をじっと見つめていた。口を開けば何かが飛び出してしまうかのように、口をグッと結んでいた。 口を大きく開ける童女と口をきつく閉ざす主。そんな対照的な二人の間には、ぽわぽわとした静かな光が浮かんでいる。私はそれが何であるかを知っている。しかし、それを言葉にするほど野暮なことはしない。私にだって、情というものはある。この二人の間にあるものには到底及ばないかもしれないが。 ついでに言うと、さっきからナナミとか言う幽霊もワンワンとうるさい。犬のような声で臆面もなく大声で泣いてやがる。茶番のようなやりとりを前にして本気で泣くような奴っているもんだな。俺までつられそうになるからやめてもらいたいもんだ。 それからどれくらいの時間が過ぎたことでしょう。 サササッと済ませてほしいと老人にお伝えしたはずなのですが。好々爺然とした雰囲気に騙されましたが、人の体を随分と長いこと好き放題使ってくれます。とんだ強かな狸だったと気付いても、この場で僕の体から追い出す訳にはいかず、もはや後の祭りでした。 そんな狸さんがつぐんでいた口を再び開きます。気丈に振る舞っていましたが、その声がほんの少しだけ震えていることに気付いたのは、依代である僕だけかもしれません。 「あぁ、おちよや……もう泣くのはおよし。おちよや、もう行っておくれ。次のお家を見つけておくれ。そして、幸せにおなり。さぁ、行っておくれ……」 そう言われたものの、童女が簡単にこの屋敷から出て行くことはありません。 「ご主人様、そんな寒いところにいてはお体に障ります」と主の体を慮ります。 「おちよや、儂の身体を心配してくれるなら、もう新しい居場所を見つけに行っておくれ。儂も体が冷えて辛いんじゃ」 童女も童女ならば、主も主といったところでしょうか。玄関の前で童女を見送る体勢を崩すこともなければ、辛いと言う割に微動だにすらすることもありません。 さらに時間が過ぎていった。 お互いに見つめ合ったまま頑として動くことはなかった。どちかが動いてしまっては、この均衡が崩れてしまうと言わんばかりだった。本当にいい加減にしてほしいもんだ。 隣の女幽霊は相変わらずウルウルとしている。削げ落ちた鼻からズズズっと鼻水を啜っている。器用なもんだ。 そんな二人の均衡を崩し、先に動いたのは童女の方だった。 寒い中にずっと立っていたこともあってか、狸ジジイが嫌な咳をし始めた。生前の持病か何かだろう。幽霊になったところで病気が治るというものではないらしい。 童女もさすがに自身のせいでご主人様が倒れてはいけないと感じ取ったのだろう。 ようやく、ゆっくりと、それはもう亀の如き遅さで玄関へと踵を返した。一動作一動作を確かめるかのように足を上げ、顔を上げる。どこかで主から声をかけられるのではないかという駆け引きをしているようにも見える。しかし、その期待は見事に裏切られる。童女も妖としてそれなりの年月を生きているのだろうが、ジジイの老獪さには敵わないようだ。 童女が玄関の引き戸に手を伸ばした。 屋敷の主は、その姿を見ることをできませんでした。主はじっと天を見上げ続けています。瞳には大粒の涙が溜まっているのです。今ここで童女を見てしまっては、その涙が止まらなくなってしまう。その姿を見てしまっては、どうしたって引き止めてしまう。せっかくの強い意志で別れを告げた意味がなくなってしまう。もう二度と童女と離れようなどとは思えなくなってしまう。 玄関が開かれようとしたその時、童女がゆっくりと振り返りました。 振り返り、唾を飲み込みます。そして、数秒の間を置きました。一、二、三……目を瞑り、グッと口を結び、歯を食いしばっています。それから顔を上げ、主に声を掛けます。 「ご主人様。おちよは……おちよは、ご主人様を幸せにすることができたのでしょうか。私は本当にご主人様のお役に立てたのでしょうか」 その言葉に主は不意を突かれました。 とうとう主の目から大粒の涙が溢れ落ちます。主は年甲斐もなく声をあげて泣き出しました。大の男がなんの衒いもなく大声で泣いている姿に心を打たれたナナミさんもワンワンワンワンと声をあげて泣いています。 この場においては、この童女だけがジッと泣くのを堪えています。 少しの間大声をあげていた主は、ふうと息を吐き出し、今度は大きく息を吸い込みました。それから、大輪の花が咲くかのような若々しい笑顔で伝えました。 「当たり前じゃろう。お前さんに出逢えた儂らは世界一の幸せ者じゃ。婆さんだってちよに会えて幸せだと言っておったじゃろう。子供のおらなんだ儂ら夫婦に、奇跡のような日々をお前さんは与えてくれたではないか」 童女は口をもごもごとするだけで、ついぞ何かを発することはできないようでした。代わりに一筋の涙が頬を伝っていきました。 「さぁ、おちよや。もうお行き。早く素敵なお家を探すんじゃよ」 主は童女を外へと促します。 外には季節外れの雪がちらついていた。 「おぉ、こんな季節なのに雪が降っておるな」と言い、屋敷の主は下駄箱から一つの箱を取り出した。 そこには、大きなリボンの付いた手袋が入っていた。 「おちよに似合うかと思ってな、だいぶ前にこっそりと買っておいたんじゃ。こっそりし過ぎて、すっかり忘れておったわい」 そう言って笑うと、主は童女の手にその手袋をそっと被せる。 「あったかい」と童女は自身のほっぺたに手を持ってくる。 「さぁ、おちよや。もうお行きなさい。寒いから、あったかそうなお家にするんじゃよ」 ようやくこの茶番も終わりのようだ。たかが今生の別れだろうに。そんなことで大袈裟なんだよ。それなのに、どうして俺の目の前は滲んでいるんだ。 「……ご主人様。もう一つだけ良いですか」 「なんだい」 「あの……最後に『お父様』とお呼びしても良いでしょうか」 「あぁ……あぁ、もちろんだとも。もちろんだとも。おちよや。儂の可愛い可愛い愛娘や……おちよや……」 「お父様……」 二人が抱きしめ合っているところで、童女の体がぽうっと輝き出した。 「お父様、おちよはもう行きます。きっといつかまたお父様のお家に辿り着きます。だから、お父様。待っていてください。おちよのことを忘れずに、きっときっと待っていてください」 「もちろんじゃよ。もちろんだとも。ちよはいつだって儂らの娘じゃ。ちよは儂らの大事な大事な一人娘じゃ。忘れるもんか。またいつの日か会おう」 「ありがとうございます。お父様。またお会いするその日まで、少しだけのさようならです」 ゆっくりとお辞儀をした童女の体は光に包まれる。童女がふわっと微笑んだかと思うと、もう影も形も消えていた。
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