「ねぇ、五十鈴さんさぁ。借りたものは返しましょうねって、幼稚園の頃に習わなかったのかなぁ」 「あ、いえ、私は保育園だったもので」 「五十鈴さんさぁ。死にたいの。ぜんっっっっっぜん笑えないんだけど、その返し」五十鈴と呼ばれたその男は瞬時に竦み上がる。 「それでさぁ、五十鈴さん。物は相談なんですけどぉ、弊社ではですね、こういう場合には釣りか拾いかのどちらかをご提案させていただいてましてぇ、どちらもマグロに関係するお仕事なんですがぁ、五十鈴さんはぁ、どちらの方がお好みでしょうかね」 白スーツにオールバックといういかにもな服装の男が、猫撫で声で五十鈴という男の頭頂部にもたれ掛かる。 「マ、マグロ……ですか」 「まぁ、いきなり決断しろというのも忍びないので、明日また来ていただいて、どちらかの書類に判を押していただきましょうか」と言ったその瞬間に五十鈴の動体に激しい蹴りを入れ、怒鳴る。「オラ、さっさと決めて戻って来いや。一日だけ猶予与えてやってんだ、感謝しろよ。その分の利子はもちろん貰うけどな」 そう言うや否や高笑いをして、そのままの勢いでドアの向こうに消えた。 それが一時間前の五十鈴に起こった出来事であった。それから五十鈴は、その足で栗林の働く病院へとやってきたのだ。 「栗林さーん」 五十鈴は栗林を見つけ、大きく手を振る。 「バカ。ここは病院だぞ、大きな声を出すやつがあるか」 栗林はそう言いながらも、持っていた掃除道具を壁に立てかけ、五十鈴を出迎える用意をする。どうしたんだと五十鈴に問う。 五十鈴は「さすが、栗林さん」と言うと栗林も満更ではない様子でニヤニヤとする。上機嫌の栗林に五十鈴が事の経緯をかい摘んで説明する。 「んー。相変わらずお前の言ってることは要領を得ないんだよなぁ。何が言いたいんだよ、結局。さっぱりわからないぞ。要するにだよ。お前がマグロを食べているところで、白スーツの男が突然蹴り上げて来たって、そういうことなのか」 「ち、ち、違うよ。白スーツの人がどっちのマグロにするか明日までに決めて来いって蹴ってきたんだ」 「つまり、お前が食べるマグロを決めろってことか。大トロか中トロか赤身か否か」 五十鈴は言葉を操ることが苦手だ。五十鈴は「そうだ」とひらめき、背負っていたやけに大きなバッグからスケッチブックを取り出し、サラサラと絵を描き始める。彼は得意の絵で説明をすることにしたのだった。 栗林はそれを静かに眺めつつ、たまに「ほー」とか「へー」とか吐息を漏らしている。早く画家として認められると良いんだけどなと、栗林は独り言のように呟く。 だが、その絵の完成形を見た栗林の表情は見る見る間に曇っていった。 「おい、お前。何してんだよ。これはマグロ漁船に乗るか、マグロ拾いをするかってことじゃねぇか。お前さ、何、闇金なんかに手出してんだよ。お前よぉ、先に言えよ、俺によぉ……」 そう言って栗林は肩を落とす。 「このままだとお前、一生そいつらの喰いもんだぞ。どうせこれで金払ったとしても、利子が付いてだとかなんとかで、簡単にどうにかなるもんじゃねぇんだ。俺ぁ、そういうのドラマで知ってるからよ。詳しいんだよ、俺ぁ、そういうことによ」 栗林は然程頼りにならない知識を得意げに披露する。しかし、この場に至ってはあながち間違いではなかろう。 五十鈴は自身の過ちを悔いるかのように、俯いたまま固まっている。 そんな五十鈴の姿をよそに、栗林は「こういうのは一括でポイッと払うに限るんだよ」と、それができれば誰も苦労はしないということを簡単に言ってのける。 五十鈴も「なるほど」と簡単に首肯する。さすが栗林さんと言いながら、あまつさえ拍手すらし出す始末だった。しかし、そこで五十鈴はようやく気付く。でも、どうやって、と。 栗林は唸り声を上げながら天を仰ぐ。」天にまします何かの神よ」と祈るかのように何かの神託だか啓示だか何だかそれらしきものを待つ。 熟考に熟考を重ねた二十と三秒の後。栗林は声を発することになる。そうして、何かの神に託されたとは全く思えない突拍子もないことを言い出す。 「拐かしだ」 栗林は、おそらく何かの時代劇だか漫画だかで覚えたであろう単語を使う。 「かどわかし……」 その栗林の言葉をオウムのように繰り返す五十鈴。 そう言ってから栗林は五十鈴の耳を引っ張り、自分の口元にまで持っていく。「いいか、よく聞けよ」と栗林は念を押す。五十鈴は常にずっと注意深く栗林の声を聞いていたので、さらにこれ以上どうするべきなのかと困惑の声を上げるが、栗林はそれを無視して続ける。 「この病院にな、金持ちそうな子どもが長いこと入院してる。そいつを誘拐して、身代金を掻っ攫うんだ」 五十鈴はなるほどなるほどというように首をブンブンと縦に振る。 「な、簡単だろ」と栗林はそれをやっちゃあお終いよというようなことを簡単に言ってのける。 それが、僕が煙草部屋で栗林さんに出逢うおおよそ二十分前のことだったのです。ということを知ったのは、この事件が終わってから少し経ってからのことになります。
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