「やぁ、お嬢さん」 ここはどこだろうと私は思う。 あぁ、そうだ。私は今、子供を避けようとハンドルを切っていたのだった。あの子は大丈夫だろうか。 そう思うと同時に、眼前には灰色の電柱が広がっている。このままぶつかれば、きっと私の命はない。彼の命だって、助かるかどうかわからない。 「そうさ、お嬢さん。あなたは今から死ぬだろうね。怖いだろうね。辛いだろうね。無念だろうね」 今まさに死ぬかどうかという瀬戸際の時に、私に話し掛けてくるコイツは何者なんだろう。ニヤニヤとした顔をしているならば、まだ苛立ちもぶつけやすいというのに、真顔を崩さずに冷静に冷酷に冷徹に、今まさに死のうとしている瞬間の人間に対し、純粋な疑問を投げかけることのできるコイツは何者なのだろう。 「そうだね、お嬢さん。自己紹介がまだでしたね。私はね、『死神』というやつですよ。人間の言葉を借りるならばね」 死神……何を言ってるんだろう。そんなものがいるはずがないじゃないか。 「そこがですよ、お嬢さん。残念なところなのですよね。死神は事実として存在しているのです。認識されなければ、存在しない。存在されなければ、認識されない。だから、今ここで認識してもらうのです。私という存在を。お嬢さん、あなたに」 何が言いたいんだろう、コイツは。 「要はですよ、お嬢さん。今から私と契約をしましょう、ということに他なりません。契約の対価は、あなたの未来とあなたの大切な方の未来ということでどうです」 未来でどうかとは、一体どういうことなんだろう。 「簡単ですよ、お嬢さん。あなたにはこれからの未来を私のように生きていただくのです。一方で、あなたの大切な方には今までのように生きていただくのです。どうです。簡単な話でしょう、お嬢さん」 何を言っているのかがさっぱりわからない。要領を得ない。 「やれやれ。もっと端的に言いましょうかね、お嬢さん。あなたの愛する方の命を救ってあげましょう、ということですよ。あなたが私と取引をするならば、ですけどね」 自らのことを死神であると自称した人物——と評して良いのだろうか——を信じても良いのかしらと思ったところで、自分がおかしくなっていると思い直す。そもそもこの状況を助けられる奴なんて、この世に存在するはずがないじゃない。 「ですからね、お嬢さん。私はこの世に存在する者ではないのですよ。先にも申し上げた通り、認識されなければ、この世には存在しない存在。この世とはまた異なる次元の存在。それが私なのですよ」 この世の者ではない存在……これは死ぬ間際に見ると言われる走馬灯ともきっと違う。走馬灯でなければ、幻覚の類かしら。いずれにせよ、私は正気ではないのかも。 「自分を否定してはいけませんよ、お嬢さん。あなたは至って真っ当です。真っ当で真っ直ぐで実直です。そんなお嬢さんだからこそ、私も取引をさせていただきたいと思ったと、こういう訳なのですよ」 取引という言葉が甘い囁きに聞こえる。直感的に危険だというアラートが頭の中に響く。赤いランプがクルクルと点灯する。 「賢いですね、お嬢さん。取引というからには、当然何かしらの交換条件があるものです。コンビニエンスストアで野菜ジュースを手に入れようと思えば、数百円を支払わなければいけないように、ですね。なので、私は言いました。あなたの大切な人を生かす代わりに、あなたの人生を頂戴しましょう、と。それが取引のルールです」 私の人生を…… 「どうです、お嬢さん。安い物です。あなたが『ハイ』と言えば、取引は成立です。口頭契約がお好みでないようでしたら、こちらの書面にてサインをいただくでも構いません」 そう言って、自称死神はヒラヒラとした紙切れをどこからともなく取り出していた。契約書というものを初めて見た私からすれば、何が何だかわからない。甲と乙という文字が目を滑っていく。 「いかがでしょう、お嬢さん。あぁ、それに、ですね……これはあまり大きな声では言えやしませんが、今、ご契約いただければ車の修理代は私の方でお持ちしましょう。そうです、臆せずハッキリと申し上げれば、契約欲しさの賄賂というものになります。さぁ、いかがでしょう。お嬢さんと大切な方の人生を私にお任せいただけないものでしょうか」 セールストークが上手だこと。それに賄賂だろうがなんだろうが、私の答えは決まっていた。 「彼を……コウタを助けて。お願い……」 「もちろんですとも、お嬢さん。それでは契約締結ということで宜しいですね。では、せっかく紙も出しましたので、こちらにサインをいただきましょうか」 言われるがままに、二つの書類に名前を記入する。慣れ親しんだ自分自身の名前が、どうしてだかヨソヨソしく感じる。いつぞやに彼と一緒に苗字を考えようと言っていたことを思い出す。その細やかな願いがついぞ叶うことはないと今まさに思い知ってしまった。 「はい、ありがとうございます、お嬢さん。これにて取引完了です。甲——つまり、私のことですが——は、乙——つまり、お嬢さんのことですね——及び乙の指定する特定の一名の人生に別紙に記載した影響を及ぼすこととする、と。いやぁ、契約書というのは読みにくいものですね」 自称死神は一枚を自身の懐に、もう一枚を私に押し付ける。それから、ニヤリと嘲笑う。 「読みにくいものですけれどね、お嬢さん。契約書の内容は全文目を通した上で、可能であれば弁護士さんなどにアドバイスをいただいてくださいね。なんたって——」 そう言うと自称死神は、再び契約書の一節を読み上げる。 私はそこでようやく自身に課せられた咎について認識する。確かに、コイツは最初に言っていた。「これからの未来を死神のように生きてもらう」と。 「でもね、お嬢さん。私は人ひとりの命を救うんですよ。命の対価はいかほどか、と問われれば、少なくともそれに匹敵する何かが必要でしょう。私を十分に楽しませて頂かなくては、役務と対価が同等にはならないんですよ。さぁ、新しいショーの始まりです」 その言葉が契機となって、再び時が流れ始める。グジャッと何かが潰れる音が聞こえた。
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