「すみません。煙草の火、貸してもらえますか」 おじさんが突然そう声をかけてきました。 僕はいわゆる「見える人」に属しているのです。今日も今日とてこんなにもハッキリとクッキリと見えてしまっているので、困っちゃいます。巷では、「幽霊が見える力」を第六感だとかシックスセンスだとか霊感だとかそう呼ぶらしいです。 それにしても、幽霊になっても煙草を吸うとは夢にも思いませんでした。 幽霊が煙草を吸うというのも奇妙な話ですが、そもそもで言えば「幽霊だけど煙草を持てるのですね」などという前提条件からしていろいろと疑問に思うところも無きにしも非ずです。 そうはいえども、せっかく声をかけてきたおじさんを無碍にするのも可哀想だと思い、僕は快くライターの火を貸してあげました。 ところで、「火を貸す」という言葉は不思議なものです。いつの日にか「火を借りたのだから返すよ」などと貸した火が返却されるということなのでしょうか。しかし、貸した側の僕からすれば、正直、裸の火だけを返されても困りますという話です。裸の火を持つ男など、不審者極まりません。そういう訳なので僕はいつだって「その火は返さなくてもいいですからね」と言って、同意を得られてから火を貸すようにしています。 「あ、どうも」と言いながら、おじさんは煙草を咥えながら、じわじわと燃える火種を煙草にきちんと植え付けようと、フゥゥゥと吸い込みます。深く深く胸いっぱいに吸い込んでいきます。そうして、十分に口に馴染ませてから、しみじみとした顔でぷはーと煙を吐き出しました。 「それにしても」とおじさんが突然に語り出しました。「昨今は肩身が狭いもんだよなぁ」と言いながら、僕に同意を得ようとします。しかし、何に対しての肩身が狭いのかがさっぱりわからないので、僕は「ん、なんですって」という疑問符がこびりついた顔でおじさんを見つめます。 それにしても、で思い出したのですが、僕は以前から「喫煙所」という場所にはコミュニケーションを円滑にさせる何か不思議な仕掛けがあるのではないだろうかと勘繰っています。コミュニケーションブースト装置というものがあるのであれば、喫煙所で起動されているに違いありません。 そのような僕のどうでも良い夢想話を知る由もないおじさんは、そのままに会話を続けます。 「こうやってよ、ただ煙を吐いて吸うだけだというのに、白い目で見られる。空気を吸って二酸化炭素を吐いているような人間が何を偉そうにと、私なんぞは思ってしまうんだよなぁ」 おじさんは白い煙をぼんやりと見つめながら語っています。どうやらおじさんは嫌煙家が増えている昨今の情勢を憂いているようでした。 「副流煙、だっけか。誰かが吐いた煙の方が体に悪い、みたいな」 いや、それは副流煙の説明ではないのではないかと思いましたが、とりあえず煙が体に悪いということは理解していらっしゃるようなので、ひとまずは良しとしようと私は心の中で勝手に納得しました。 「私はね、お兄さん。思うんだよ。社会には二種類の人間しかいないんじゃないか、ってね。好き勝手に生きている人間と好き勝手できずに死んでるような人間の二種類だって。それでね、それならば好き勝手に生きたいじゃない。ねぇ、お兄さん、そうでしょう」 好き勝手に死んでる人間という第三の人類がいることを忘れそうになる発言だったのですが、ややこしい話になりそうなので、訂正をすることを諦めました。 諦観を受けた僕は、おじさんの質問には曖昧に頷いておきました。曖昧に頷くという行為は何事にも増して替え難い非常に有効なコミュニケーション手段の一つだと僕は思いました。 「やー、なんかすみませんね。私だけペラペラと。お兄さんは、何か悩みとかないのかい。私なんて悩みだらけの人生だけどさ。悩みが多過ぎて、今も仕事をサボってるところだかんね。へへへ。しかし、前途有望な若い人にそんなこと聞いたら失礼ってやつか」 いえ、答えるのは別に構わないのですが、僕の悩み話なんて聞いても面白くはないですよと、率直な意見を伝えました。 いやいや、それでも何かあるでしょうとおじさんが食い下がるので、それならばということで僕はこの数ヶ月間の悩みを話してみることにしました。 「んー。僕は、どうして病院の喫煙所なんかの地縛霊になっちゃったんだろうって最近よく思ってまして。正直に言っちゃえば、女子更衣室とかだったらまだ少しは良かったんだけどなと。しかも、そういう素直な心境を吐露しても、誰もまともに聞いてくれやしないんですよ」 「はっはっは。お兄さん、見かけに依らず、随分と面白いことを言うね。確かに、私らみたいな喫煙者ってのは喫煙所の地縛霊みたいなものかもな。朝から晩まで煙草のことを考えているのだから」 ほらね。僕が幽霊だということを信じてくれる人は、誰もいません。 そう、何を隠そう、僕は「生者から見える幽霊」というやつなのです。こんなにもハッキリくっきりと生者から姿が見えていまうというのは、なんというか幽霊としてのルール違反なのではないのかしらなどと思います。幽霊というのは薄ぼんやりしていて、よく見たら足がないとかそういうのが通説じゃないですか。 しかも、僕の異質なところとして、生者から普通に見えるどころか、誰かから触れてしまいますし、誰かに触れたりもします。 それでも、僕は死んでいます。脈拍や呼吸といったものが存在しません。 それでも僕は死んでいるのです。幽霊なのです。僕は幽霊であるにもかかわらず、そういう気持ちと共に、僕はやれやれと独り嘆息します。 そんな僕の横でおじさんは「美味しい煙草の時間をサンキューな。また会おう、地縛霊の若者よ。ガッハッハ」と豪快に笑って、喫煙所から出て行きました。 さて、おじさんも出て行き、喫煙所に一人きり。誰もいない喫煙所というものは静かで平和です。少々空気は淀んでいたりはしますが、幽霊である僕には関係のないことですし。 しかし、そんな平和を乱す騒々しい風の音が遠くの方から聞こえてきます。ビュービュビュビューと台風でも吹いているかのような物凄い風です。聞かないことにしてそっぽを向きたいところですが、どうもそういう訳にもいかなそうです。
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