ナナミと田中と煙草の火
[最終章] 第10話:彼女の交わした契約ーその後ー

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「はいはい、待ちましたよ」  慎太朗は私の制止に従順に従った。 「アンタさぁ、本当に何も覚えてない訳」 「うーん……そうですねぇ……何もという訳ではないですが、なんだかいろんなことがわからない感じはします。何がわからないことなのかもわからない感じです」 「それ、気持ち悪くないの」 「うーん……そうですねぇ……気持ち悪いのかもしれないんですが、ここまで出てるんだよ、というあの感じではないんですよ」  慎太朗はそう言いながら、自らの喉をトントンと叩く。喉まで出掛かっているんだけど、というジェスチャーだ。 「もう初めから綺麗さっぱりわかっていないので、むしろあっけらかんとした感じと言いましょうか」 「なかなか図太い性格してんね」と言ってから、私は「知ってたけどさ……」とボソッと付け足す。 「え、なんでしょう。失点だっけ、ですか」 「あぁ、いい、いい。気にしないで。気にしたところで負けだから」  私は顔の前で手をヒラヒラとさせる。  さて、慎太朗のことを「待て」と言って止めたは良いけれど、これからどうすべきかと頭を悩ませる。  今のコイツは、慎太朗の見かけをしただけの別人……別幽霊だ。兎にも角にも、彼の生前の記憶をどうにか取り戻させないといけないだろう。それを取り戻さなければ、彼が成仏することはできない。  幽霊となった慎太朗は私の悩みをよそに、依然としてこの部屋をキョロキョロと見渡している。犬のような仕草は昔とあまり変わってはいない。 「ところで」と慎太朗が言う。 「なによ」 「名前は」  コイツ、自分の名前すら忘れてるのか。私はガックリと肩を落とす。 「あ、ごめんなさい。伺う前に自分の名前から名乗るべきですよね。僕の名前は、田中慎太朗です」  あぁ、私の名前のことを聞いていたのか。 「私は、ナナミ」  そういえば、誰かに名前を伝えるのなんていつぶりだろうと私は思う。 「ナナミ、さん。うん、覚えた。ナナミさん。ナナミさん」  慎太朗……いや、田中は何を気に入ったのか、私の名前を連呼する。そういえば、誰かに名前を呼んでもらうことだって、久しぶりだ。 「ねぇ、ナナミさん」  しかも、あの人と同じ声色なのだ。 「これからどうしましょう」  それを聞きたいのはこっちの方だ。  でも、あまり時間的な猶予がなさそうだということを感じる。  どうやら幽霊になったところで体質というものは変わらないらしい。こんな特異体質でも問題ない場所はどこだと頭を巡らせる。 「田中、今日から喫煙所で暮らすように」  私は咄嗟に喫煙所を思い出す。四方八方を壁で囲まれ、そこまで大きくもない丁度良いスペース。さらに、そこに常に誰かがいても、そこまで気にも止められない空間。我ながら冴えている。私は自画自賛したくなった。 「えー、なんで喫煙所なんですかぁ」  喫煙所の形とサイズならば結界が張りやすい。最強の霊媒師と自称するようなナルシストのアイツに頭を下げるのは癪だが、そんな場合ではない。見つけ次第とっ捕まえて、ササッと強力な結界をお願いしよう。  それにしても、田中の癖に口答えをするなど百万年早い。アンタはこの現状を見てから物申せと言いたくなるが、説教するのは後回し。今はそんなことをしている時間が惜しい。惜しいどころか、全く足りてすらいない。 「さぁて、急いでここから出るよ」  私はそう言うと田中を掴んで真上へと急浮上する。その瞬間に私たちがいた床一面が口らしきものに変わった。無数の歯と滑って光る大きな舌が見える。こういう時に幽霊というものは便利なのかもしれない。得体の知れない禍々しい存在から脱出するには幽霊に限る。 「……なんですか、あれ」  さすがの田中にも焦りが見える。私だって肝を冷やした。 「なんだかはわからないけど、アンタはああいう変なのに好かれやすいみたい。だから、私がいる時以外は喫煙所から出ないこと」  田中は不服そうな顔をするも、先程の謎の化物を見たこともあってか、不承不承で承伏する。 「そうなると僕は、さしずめ『喫煙所の地縛霊』ってところですね」 「もう一度死ぬよりはマシでしょ」 「どうでしょう。死んだ時の記憶がないので」  田中慎太朗という男は、こんなに図々しかったかしらんとナナミは首を傾げる。  その微妙な出会いからというもの、私は事あるごとに田中を連れ回すようになった。  いつの日か私がいなくなっても、田中一人で生きていけるように。最初の頃こそ、そんなたいそうなことを考えていた気がするけれど、今となっては良い遊び相手だ。渋々着いてくる田中が面白い。  私だって長年一人だったのだから、少しくらい楽しませてもらったところで罰などあたりやしないだろう。仮に当たったとしても、このナナミ様の手で跳ね除けてやろうとは思っているけれど。 「はいはい、お嬢さん。お久しぶりです」  その声を聞くのは三十年ぶりというところだっただろうか。イントネーションと感情の起伏に乏しいその声を、私は忘れるはずもなかった。 「どうです。このところの調子は」  白々しい。自称死神であるコイツはわかってて現れやがったに決まっている。 「おやおや、お嬢さん。そんなにつれない目を向けないでくださいよ。私、人ひとりの命を救った命の恩人じゃないですか」  確かに、あの事故で私だけではなく、孝太も命を落としてもおかしくはなかった。それを自称死神であるコイツが助けた。でも、それは代替を伴う契約だった。 「……その代わりに、命を奪えと言うんでしょ、アンタは」 「はいはい、お嬢さん。きちんと契約を覚えていらっしゃる。それにしては実行にまで随分と時間がかかっておられませんか。債務不履行という言葉をご存知ですか」  この自称死神と私とで取り交わした約束事。それは、私に死神として生きることを命じるものであった。 「覚えてるよ。忘れられるものか……」 「それは何よりです、お嬢さん。私も役務を提供するだけで終わってしまっては、大損ですからね」  私たちが結んだ契約。それは、私が自らの手で最愛の人の命を刈り取ることを課すもの。死神として生きるとはそういうこと。 「私は役務を提供したのですから、きちんと対価をお支払いいただかなければなりません。あ、もちろん利子などは不要ですよ。サービスです。サービス」  自称死神が私の最愛の人である孝太の命を助ける代わりに、私に最愛の人である孝太の命を奪えと言う。それが役務の対価だと自称死神は言う。 「それにしても時の経つのは早いものですね。なにせ、あなたの愛する人……孝太さん、でしたっけ。彼があなたを見限って恋人を作って、さらには早々に結婚され、あまつさえ子供を二人もこしらえて、そのうちの一人が死んでしまい、その悲しみすら癒えつつある程の時間が流れたんですものね」  あれから三十年。随分と時が過ぎたものだと私も実感する。だからといって、孝太の命を奪って良い理由にはならない。 「……いつまでに実行しろ、という制約はなかったはずでしょ」 「うふふふ。さすがですね、お嬢さん。やる気は満々じゃありませんか。対価をお支払いいただかなければ、いつまで経ってもあなたが成仏できませんものね」  そうなのだ。孝太を殺さなければ、私に安穏の時が訪れることはない。 「実行される際にはお呼び出しくださいね。せっかくのリアリティショーですので、ライブで楽しませていただきたいもので」  自称死神はそう言うとジュルリとよだれを拭う真似をする。下品な奴。 「それにですよ、お嬢さん。最近の彼、随分と憔悴なされているではないですか。良い頃合いなのではないですか。ここいらでザクっと……」  自称死神を睨み付けると、「おぉ、怖い」と震え上がる素振りを見せて、そのまま空気の中へと消えて行く。「またお会いしましょう」という声色だけを残して。  ただ、あの下衆な男の言うことにも耳を貸しそうになってしまう程に、今の孝太は生気に乏しい。  でも、それも無理もないことだと思う。  こうなった孝太を、私は三度見ている。一度目は、私が死んだ時。二度目は、慎太朗が亡くなった時。そして、三度目の今。  三度目となる今回は、孝太の最愛の奥さんである綾乃さんが倒れた。幸いにして、その場で一命は取り留めたものの、手術をしなければその後どうなるかはわからないという具合だった。

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