櫻にカナリヤ
雨に金糸雀(3)

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 決心をしたところで、皓汰にしたほどの電撃戦を茗香に仕掛けられるわけもなかった。今まで逃げに逃げてきたから、急に向き合うといってもやり方が分からない。  初恋っぽいねぇ、思春期だねぇと皓汰にはにやにやされている。甚だ不本意だ。  冷蔵庫を覗き込み、椎弥はため息をつく。 「何もねぇー……」  柏木夢子は台所に立ち入るタイプの女性でなかったが、成人が一人増えるとやはり影響が出た。ここ数日は椎弥も見栄で華やかな品を足したりしたから、完璧だった食材フローに乱れが生じている。  冷蔵庫の扉を閉めて、今朝入ってきた新聞の折り込みチラシを広げた。  これは行きつけの八百屋の二色刷り、こっちはときどき使うスーパーの両面フルカラー、手を変え品を変え興味を引こうとしているが、要するに見慣れた商品ばかりだ。皓汰の三十の誕生日は明日だし、気晴らしも兼ねてもっと特別なレシピに挑戦したい。  スマートフォンで近隣の食料品店を検索する。一人暮らしの頃よく利用した高級スーパーの名前がある。いつも買い物をする地域とは真逆だが徒歩圏内だ。  白のオックスフォードシャツに、ライダースジャケットを羽織って外に出た。昨日は雨で冷え込んだものの、今日はなかなか暖かい。春の気配に足取りも軽くなる。  初めて行く店舗は、高葉ヶ丘駅前の総合アミューズメントパークの中にあった。  椎弥はつい挙動不審になる。子供の頃でさえこんな楽しそうな場所には来たことがない――椎弥の目は、世間体を気にする両親が連れ歩くには派手すぎたのだ。ジェットコースターも観覧車も、球場に出入りするとき遠目で見ただけの異界の物体だった。  平日の昼間でもショップ街はそこそこ賑わっていたが、おしゃべりに夢中な女性グループや自分たちしか見えていない学生たち、幼子のお守りで手一杯の母親などが各々騒がしくしているだけで、誰も椎弥には気を払わない。昔ながらの商店街で『コウちゃんの旦那さん(あるいは奥さん)』と呼び掛けられるのも悪い気はしないけれど、椎弥はまだ下町的な近所付き合いには慣れていない。このくらいの無関心が一番楽だった。  クレープ屋の近くに差し掛かる。五歳ぐらいの子供が二人、交互に駄々をこねている。双子か、大変そうだなと父親を見たらばっちり目が合った。 「椎弥!?」 「……てっぺー」  椎弥は後ずさって親友の名を呼んだ。こんなところで会うなんて、いや、不定休の友人がたまの家族サービスをしているのは何も不自然ではない。場違いなのは椎弥だ。  徹平は両手にそれぞれ子供を抱えて駆け寄ってくる。 「買い物か? こっちの方に足伸ばすなんてめずらしいな」  幼女がステレオで、だぁれーだぁれーと繰り返している。双子の姪。生まれたと聞いたときに祝い金を贈ったきり、会うのは初めてだ。徹平は上下に軽くバウンドしながら答える。 「椎弥お兄ちゃんだよ、いつもテレビで見てたろ。椎弥、こっちが清香さやかでこっちが鈴香すずか」  さぁかです、しゅずかです、と元気よく挨拶されて、しーやですとつられて返した。雰囲気は似ているけれど茗香の子供の頃の方がかわいかったなんて、本人たちや父親の前では言えやしない。  徹平は太い眉を寄せ、斜め奥の公衆トイレに視線をやる。 「急いだ方がいいかも。多分そろそろ戻ってくる」  誰のことを指しているのかはすぐ分かった。今までの椎弥なら気遣いに感謝して即座に立ち去ったはずだ。だが迷ってしまった。これは大きなチャンスなのでは? 待て、一家の時間を邪魔してまで自分が楽になりたいのか? 徹平が一日休みだなんて、そう頻繁にはないだろうに? 「え、椎ちゃん? どうしたの。こんなところで」  ベビーカーを押した女が声をかけてくる。顔を上げるまでもない。茗香だ。 「ママしーやちゃんだよ」 「しーやちゃんパパのおともだちなんだよ」  双子がご丁寧に説明をしてくれて、まだ言葉もおぼつかない様子の赤子はベビーカーからまじまじと椎弥を眺めた後、とりあえずという感じでカーゴパンツのポケットをつかんだ。 「清香と、鈴香と、この子が朝香あさかです。椎ちゃん会うの初めてだよね」 「あ、うん」  答えるついでに茗香を盗み見た。腰まであった髪を肩を過ぎるぐらいまで切って、くたびれたシュシュで一つに括っている。子供たちを連れて日常的に外出するためなのか、透き通るように白かった肌はいくらか焼けたようだった。 「椎ちゃんもお買い物? それなら、一緒に行ってうちで一休みしない?」  茗香に笑顔で提案され、椎弥はかすれた声で、いいよと返した。  随分強引になったなと思ったけれど、昔からだった気もする。茗香は椎弥も徹平も手を焼くほど、とびきり素敵で頑固な女の子だったから。 「ごめんね、散らかってるけど」  茗香の言うことだからどうせ謙遜だろうと高を括っていたら、井沢家は本当に散々な有様だった。ところ構わず洗濯物が干してあるし、三歩歩けばおもちゃに当たるし、テーブルの上は何だか分からない色紙のくずだらけだ。  双子は靴を脱ぐなり駆け出して、人形を取り合い大ゲンカになった。ベビーカーを片付けていた茗香がすっ飛んでいって説教を始める。  徹平は茗香の作業を引き継いで苦笑した。 「悪いな。呼んどいてこんな状態で」 「おれたちがガキの頃のがひどかったろ。あんま覚えてねーけど」  椎弥は建売一戸建ての壁を撫でる。低い位置にカラフルなシール。かわいいものだ。椎弥と徹平は、三住家の柱に自分の背の高さをマジックで書き込んで大目玉を食らった。  そのまま昔話に移行するかと思いきや、徹平は声を落として椎弥に首を寄せた。 「茗香に話したいことあるなら、協力するぞ」 「……君のような勘のいいデカは嫌いだよ」  椎弥は漫画の台詞をもじって強がってみる。有名なネタだと思うのに徹平には全く通じていない。観念して息を吐き、一言だけ告げた。 「めーかに告白する」 「そうか」  徹平も一言しか返さなかった。コアラのように椎弥の足につかまっていた三女を抱き上げ、明るく通る声を双子に向ける。 「ゆうやけたんけんたーい!」 「いちーっ!」 「にーっ!」  緑の服の女児が右手を挙げ、黄色の服の女児が左手を挙げ、揃って徹平の元まで駆けてくる。  徹平は椎弥の右肩を二度叩くと、父親の顔で娘たちにコートを着せて冬の街に出ていった。 「近所の坂を上がっていくとね、夕陽がすごく綺麗に見えるの。すぐそばなんだけど、子供の足には探検みたいに遠く感じるみたいだから」  茗香がソファの前のラウンドテーブルにカップを置く。促されて右端に座る。茗香が横に腰を下ろす。懐かしい居心地の悪さだ。正面に座るのも隣り合うのも不安になる。 「桜原さんはお元気?」  茗香は結婚式以来顔を見せなかった不義理を責めもせず、ゆったりと問いかけてくる。飲んでいるのはコーヒーだ。しかもブラック。椎弥の知る茗香は紅茶党で角砂糖を三つも入れていた。  げんきだよ、と小さく返して、椎弥も浅煎りのコーヒーを喉に流し込む。せっかく徹平が時間をつくってくれたのに、頭の中が真っ白で何を言っていいのか分からない。  茗香はカラフルなカップを両手で持って、少し笑った。 「桜原さん、優しい人でしょう? 椎ちゃんのこともきっと大事にしてくれてるんだろうなって思って」 「めーか、セン……こーたと交流あったんだ?」  椎弥はやっとまともな口を利く。交流ってほどじゃないけど、と茗香はカップを置く。視線は膝の上で汲んだ両手に注がれていた。 「わたしと椎ちゃんも双子だけど、多胎育児って本当に寝る暇もなくてね。清香と鈴香が生まれたばかりの頃は、わたしもすごく余裕がなくて、徹平くんもああいうお仕事で留守がちだから、もう全部嫌になっちゃって……お母さんを電話で呼びつけて、子どもたちを押し付けて家を飛び出しちゃったことがあったの」  椎弥は相槌しか打てずに茗香の告白を聞いていた。  よく聞く話だけれど、茗香までそんな風になるとは考えたことがなかった。茗香ならきっと絵に描いたような良妻賢母をスマートにこなすと勝手に思い込んでいたから。  茗香は鼻をすすって天井を仰いだ。ろくにとかした様子のない黒髪が首の方に流れる。 「桜原さんと道で偶然会ってね。手ぶらだったから多分散歩か買い物の途中だったんだと思うな。でもわたしが泣いてるのに気付いて、『奥さんちょっとお時間よろしいですか』なんて、近所のジャズ喫茶に連れて行ってくれたの。わたしは初めてのお店だったけど、桜原さんはご主人と知り合いだったみたいで居心地のいい席を用意してくれて、楽器の生演奏聴いたのなんて久しぶりだったな」  椎弥はつい笑みをこぼした。皓汰らしいおどけ方だ。徹平と茗香がデートで何度も使ったという、警察署前の喫茶店を避ける気遣いも。  茗香は顔を動かして椎弥を向いた。口唇はやわらかく弧を描いている。 「桜原さん、何でも話していいって言ってくれたの。自分の仕事はいろんな人の体験と気持ちを集めて活かすことだし、聞きたくないことや聞いて害になることはないからって。話したいことを話したいだけ話していいって言ってくれて……結局、徹平くんが迎えに来てくれるまで二時間ぐらいかな。嫌な顔ひとつしないでわたしの泣き言を聞いてくれて、最後に短く『どうもありがとう』って。お礼を言わなきゃいけないのはわたしなのに、なんて優しいんだろうって思った」  そうだね、と椎弥は目を伏せる。  優しい人だ。桜原皓汰は。いざこざに首を突っ込むのが嫌いなくせに、いざとなると静かに親身になってくれる。だから本当に甘えていいのか疑問になる。このまま彼の人生を踏み壊していいのかと足がすくむ。  椎弥はテーブルの周りに散らばったクレヨンを一本ずつ拾い、小さな箱に収めていった。 「おれもお礼を言わなきゃ。大事な妹を助けてくれてありがとうって」 「桜原さんと、わたしの話するの?」 「こないだもしてた」 「どんな?」  十二色揃ったクレヨンの箱を茗香が閉じる。椎弥も口を開けられなくなる。  時計の秒針がうるさく響き、その音に紛れて茗香が呟く。 「椎ちゃんは、わたしのこと嫌いなんだと思ってた」 「そんな」  ことないよ、と続けかけて黙る。  そんなことないよと言ってしまいたかった。今までみたいに嘘に逃げてしまいたかった。  椎弥は左手をぐっと握り締める。薬指に光る、桜原皓汰に渡したのと同じデザインのリング。  そうだ。どうなっても帰ってきていいと言ってくれた。待っていると。  椎弥は情けなく声を震わせて頭を下げた。 「ごめん。めーか」 「ううん、いいの。一緒にバージンロードを歩いたとき、そうじゃないって気付いたから」  茗香が椎弥の右腕に触れる。井沢徹平と揃いの指輪が光る左手で。  通常父親と歩くバージンロードを、茗香はどうしても椎弥と歩きたがった。父の面子を潰してまで我を通すのはきっと初めてだっただろう。椎弥は迷って、迷って、櫻井皓に――桜原皓汰にふわりと背を押された。そうして茗香の手を取って、徹平に――一番信頼している男に一番愛している人を託した。 「めーか。おれはね」  腕を動かして、右手で茗香の指先に触れる。獣のように理性を失うかもと怯えていたのに、速くなる心拍は別の理由だった。  子供たちがにぎやかに暮らす一軒家。リビングで休む一対の男女。 「おれ、めーかとこんな風に家族を築きたかった」 「うん。知ってた」 「違うよ。めーかは知らない。おれがどんな風にめーかを好きだったか」  おれは本当の君をずっと知らなかった。君も知らない。君の兄貴がどんな男だったか。  人生でこれ以下の顔をすることなんてないぐらいに、無様な顔で涙を絞る。 「おれは、てっぺーの位置にいたかった。君と生まれたままの姿で愛し合って、おれの子供を産んで笑ってほしかった。おかしいし、きもちわるいだろ。こんなの」  知ってた、と茗香は繰り返した。  穏やかに、諭すような声で。 「椎ちゃんがずっとわたしを守ろうとしてくれてたこと、気付いてた。わたしを愛していても、愛しているから、その気持ちを絶対表に出さないようにしてくれてたことも」  茗香はティッシュで椎弥の涙を拭い、額に口付けをくれた。  祝福のキス。眠りにつく子供から悪夢を取り去るおまじない。幼稚舎の頃は毎日交わした親愛の動作。  椎弥は茗香の両肩に手を置き、彼女が好きだと言ってくれたカナリヤ色の両目で、全く似ていない黒い瞳をまっすぐに見据えた。 「めーか、おれ、こーたを愛してる」 「うん。わかるよ」 「一番気持ち悪いところから、少しはマシな恋に移れたってだけだけど、それでも」 「椎ちゃん。そういう言い方しないで。わたしは気持ち悪いなんて一度も言ってないし、桜原さんにも失礼だよ」  茗香の手が椎弥のやわらかな癖っ毛を撫でる。  自分の気持ちを言葉にできずに、すぐ泣いてばかりだった茗香。いつの間にこんなに饒舌に椎弥を叱れるようになったのだろう。 「わたしは徹平くんが好きだから、あなたを選ばなかっただけ。徹平くんもわたしを選んでくれたから、もうわたしは絶対にあなたのものにはならない。だからあなたも安心して、あなたを愛してくれる人の手を取って」  椎弥は頷き、茗香の額に口付けを返した。大人になった妹へ。そして永遠に分かたれた半身に向けて、最後の祝福を心から贈った。 「めーか、ありがとう。愛してた。これからも大好きだよ」 「ありがとう。わたしもいつまでも大好きよ。兄さん」 「めーかに話してきた。全部」  椎弥は桜原家に戻ると、廊下で待ち構えていた皓汰へ手短な報告をした。  そう、と皓汰の返事も簡潔だ。階段を上がりかけてから、思い出したように首だけで振り向く。 「その袋片付けたら仕事部屋に来て」  皓汰には何の表情もなかった。感情のことごとくが抜け落ちた顔。角度がついても別段の光にもならない。能面の方がよほど感情豊かに見える。  椎弥は眉を下げて頷いた。きびすを返す皓汰の、着つけた覚えのない刈安の角帯が目に付く。  皓汰がああいう顔をするときは、ろくなことを考えていないのだ。他人にとってではなく皓汰自身にとって。椎弥は食材を手早く片付けると二階に上がった。  皓汰が仕事部屋と呼んでいるのは、櫻井朔が使っていた和室。皓汰が生まれる前に亡くなったというが、祖父の遺した本に育てられた皓汰は立派な『おじいちゃん子』だ。最近では着物も板について、近所の呉服屋で黒地に派手な花柄の袷を仕立てた。かぶいた皓汰に似合っている。  椎弥が襖を開けたとき、皓汰はその自前の着物に縞の綿入れを羽織っていた。肩にかけているだけで袖は通していない。古い長持に座り、酷薄な目で口唇の片端を持ち上げる。 「最後の試練」  袖で指した部屋の中央には花台があった。花台には皓汰が仕事で使っている古いノートパソコンがあった。画面の中ではエプロンをした黒髪の女がおもねる仕種で身体を傾けていた。 「なにこれ」 「最後まで見て。俺の前で」  周囲のウインドウでいかがわしい動画であることはすぐ分かった。椎弥は後ずさり和室から出る。 「やだよ。なにそれ。意味わかんない」 「椎弥」  皓汰が傍らの金属バットを手繰り寄せる。両手で持ちヘッドを思いきり畳に打ちつける。古い木造が衝撃に震える。椎弥の足元ももろともに揺らぐ。  皓汰はバットに体重を乗せた任侠映画みたいな恰好で、椎弥、ともう一度繰り返した。 「俺のこと好きか」  もはや問いかけではなく恫喝だった。椎弥は気圧されて首を縦に振る。皓汰は視線を目の前の空間に据えたまま椎弥を向かない。色のない口唇で淡々と告げる。 「『降って湧いた希望を掲げて、きっと絶望の埋め合わせになるなんて屈託もなく考えちゃいないだろうね。手前の凹凸を確かめる気概もないくせに?』」  つい数日前に読ませてくれた原稿の台詞だった。まだ世に出ていない、誰も触れたことのない櫻井皓の言葉。  金属バットが気忙しく畳の縁を叩く。 「椎弥。もしまたあの夢を見ることがあれば、おまえ今までよりずっと深く自分を憎むよ。彼女が赦したからって自分まで背徳を受け入れるべきじゃないって、二度と誰にも心を開かなくなる。自分にも、井沢にも、彼女にも、俺にも」  間に皓汰個人の意見を挟んで、衿から露出した白い喉は新しい文言を淀みなく吐き出す。 「『その胸に両手を突き立てろ。灼熱の澱を氷結の泥を掻き分けて、欠落の輪郭を認めろ。おまえの希望のかたちなど、おまえ以外に判りはしない』」  椎弥はふらりと前に踏み出した。い草の感触。もう一歩先へ。皓汰は何も言わずに見ている。  櫻井皓はいつもそうだ。安易な救いを認めない。鋭く磨き抜いた現実を、眼孔と同じ高さに置いている。逃げ隠れできない一本道で、光を見出しながら盲いる未来に誘う。  椎弥はその残酷を愛した。地獄を安息と嘯く不遜に共感した。彼が自分に主人公の席を与えてくれたのなら、我が身のときだけ座り込んで泣いているわけにはいかない。  部屋の中心に立つ。ろくに暖房も効いていない室内なのに炎天下のように頭がぐらぐらする。  高二の夏、甲子園球場の真ん中にいたときの光景が脳裏に走る。あのときの方が多くを負っていたはずなのに、今の方が背中は重い。  喉を鳴らしてパソコンの前に正座する。皓汰はバットを転がして、長持から緩慢に立ち上がった。椎弥の後ろに回り込み、肩越しにするりと両腕を絡みつかせる。 「『覚悟。なんて無邪気な空箱でしょう。私そういう不埒は好きよ』」  耳をくすぐる甘い声。椎弥が「救いがない」と褒めた『域』のヒロイン、茅子かやこの台詞だ。  椎弥は黙って皓汰の左手を握り、逆の手でマウスをクリックした。  おかえりなさい、とカメラに向かって女が言う。茗香とは似ても似つかないが、カテゴリは近い。長い黒髪に大きくて黒い瞳。男の顔は映らない。筋ばった手が女の腰を撫でる。女は半笑いで身をよじる。みだらな水音を立てて口付けを始める。  椎弥はこういったものに一切触れてこなかった。信心のためでなく、見も知らぬ女のあられもない姿に妹を重ねることが怖かったから。  エプロンの女は跪いて男のベルトに手をかける。  二十一世紀にもなって、いかにカトリックといえど性交は生殖の目的でのみするべきとは椎弥も考えていない。徹平は何度も茗香を抱いているはずだし、つまり茗香は確実に処女ではない。  作りものの夫婦は寝室に移動した。嬉しそうに弾む女の痴態を見ていたら、今日はもう枯れたと思っていた涙が椎弥の目尻から滑り落ちた。  痛みと呼ぶには淡すぎた。安堵と呼ぶには痺れすぎた。強いて呼ぶなら納得だった。  穢れではない。徹平となら、茗香には幸福な行為なのだ。  椎弥も皓汰とならそうであるように。 「おめでと」  皓汰が頬を寄せて呟く。意味が解らない椎弥の身体の中心を、皓汰の指が示す。 「無反応じゃん。立派なゲイだね」  口調があんまり下品で、椎弥は噴き出してしまった。緊張の反動でなかなか笑い止まない。 「そうだな。おれもう、こーた以外とはできないよ」 「調教の甲斐がありましたな」  皓汰は芝居がかった言い方でキスをして、強引に椎弥を引き倒した。畳に積まれた本の匂いが鼻をつく。隣に転がる皓汰は、見たことのないほど幼い笑顔を袖で隠そうとしている。  ――ああ、そうか。  またひとつ納得をして、椎弥は皓汰の目許にかかる髪を右手で除けた。 「ごめん。おれが情けないせいで、ずっと不安にさせてた」  皓汰は口を閉じて瞬きもせず椎弥を見つめた。椎弥はだらりと下がった皓汰の左手を取り、祈りのかたちに指を合わせる。 「おれの絶望は、めーかじゃなくおれのかたちをしてた。求めてた希望は、あなたのかたちをしてる。だから――」 「ねえ椎弥」  せっかくの決意の腰を折り、皓汰はやわらかく目を細めた。 「初めて会った日、俺が『バージンロード歩きなよ』って言ったの覚えてる?」 「覚えてるよ。だからめーかと歩けたんだ」 「もう一度歩いてみない? 今度はカラコンなしの、本当の椎弥の色で」  皓汰の目が潤んでいる。茗香と同じぐらい黒くて、誰とも比べられないぐらい涼しげな瞳が。 「茗香さんと歩いてきてよ。俺のとこまで」  あ、とか細い声が椎弥の喉から漏れる。  目立つのが嫌いで、人前に出るのも嫌いで、祝われたり褒められたりするのも苦手な皓汰。宗教も学問として知っているだけで、信心とは程遠い。その人が、面倒も責任も全て織り込んで言ってくれた。気の利いた返事をしたいのに上手くいかない。上手くいかないのが嬉しくてもっと泣きたくなる。せめて体温を分かち合いたくて冷たい手をぎゅっと握った。 「ありがとう。おれは、あなたを愛せてよかった」  皓汰は頷き、春の桜のほころぶように微笑んだ。 「こちらこそ。俺の人生に現れてくれてありがとう。三住椎弥さん」  時代錯誤な服に包まれた薄い身体を、椎弥はそっと抱き寄せる。自分の吸わない煙草の香りを肺いっぱいに呑む。  椎弥の生き方も皓汰の生き方も、ろくなものではなかった。  これからも他人に自慢できるものになりはしないのだろう。  けれど世界に否定し尽くされても、繋いだ指が痛んでも、おれはおれの大切なものを大切だと叫び続けていくんだ。  あなたがおれに教えてくれた『愛』は、そういう類のものなのだから。

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