櫻にカナリヤ
雨に金糸雀(1)

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 椎弥しいやが引退してから約五ヶ月。二月も下旬となり、最高気温が二桁に達する日も増えてきた。皓汰こうたの祖父が植えたという玄関の前の桜も、遠くない春を待ちわびているように見える。  椎弥は枝を見上げて顔を綻ばせてから、桜原おうはら家の引き戸を開けた。 「ただいまー」 「おかえり……ごめん、せっかく起こしてくれたのに二度寝した」  桜原皓汰がぼろぼろの寝間着姿で階段を降りてくる。麻の葉柄の浴衣。毎晩整えてやっているのに、皓汰の寝乱れは芸術的にひどい。 「悪いんだけど、お昼書きながら食べれるやつにして」 「と、思ってパン買ってきた。サンドイッチでいい?」 「助かる」  引き返していく背中。衿が抜けて肩が半分出ている。えっちだなぁ、と素朴な感想を抱きつつ、踏んでこけなきゃいいけど、と心配もする。  皓汰との生活は概ね順調だ。  まだマスコミが相手の特定に躍起になっている頃、皓汰が――櫻井さくらいあきらが出版社を通して正式に椎弥との『結婚』を発表してくれたのが大きかった。櫻井皓の作品は一貫して既存の性の在り方に疑問を投げかけてきたから、彼のファンのほとんどは椎弥との関係に好意的だった。  椎弥も彼の覚悟を受け、あらためて取材の場を持ち彼との関係を公にした。歓迎する声には心から喜んでみせたし、性根の曲がった質問には最大限傷ついた顔もしてみせた。 『僕は今まで誰にも恋愛感情というものを抱いたことがありませんでした。そういうものがあるようだと理解はしながらも共感することができなくて、恋愛に関する質問を受ける度ずっと苦しんでいた』  半分しか事実でないことを堂々と言い放った。真実で傷つくのは自分ではないから死ぬ気で、いや、殺す気で隠し通した。 『あなた方が奥さんや旦那さんとの夜について他人に訊かれたくないなら、そして相手もそうかもしれないという想像力を働かせられるなら、僕とあの人とのことはどうかそっとしておいてください』  世間の声は大体椎弥の狙いどおりになった。人々にとっての問題は『三住椎弥が同性愛者であること』から『他人の恋愛や結婚に口を挟む無神経』にすり替えられ、テレビは椎弥が黄色の瞳から一筋涙を伝わせる瞬間――片方の目許に刺激物を塗っておいたおかげで、我ながら美しく泣けた姿――を連日報道した。バッシングを恐れたコメンテーターたちは、おっかなびっくり椎弥に同情するコメントを発信し続けた。  椎弥はアンチのふりをして、自分の悪口をネットに投下するだけでよかった。その雑言が事実であろうとなかろうと、『善意』の擁護派が本当のアンチごと焼き尽くしてくれたから。  球界に未練はなかった。永久に蔑まれても皓汰と二人なら後悔はしないと思った。それでも何割かの人たちが心から祝福してくれたときは、本当に嬉しかった。そう感じられるぐらいには、野球と関われたことを喜んでいる自分が誇らしかった。  何らかのかたちで残らないかと誘ってくれる人もいた。けれど椎弥は何よりも皓汰を支えていきたかったし、ようやく本腰を入れられる『本業』もあった。実益を兼ねたネット絡みの悪趣味は、実のところ皓汰の稿料より多くの金を呼んでいる。皓汰には、収入について『合法な範囲で資産を運用している』としか申告していない。実際この水準の生活でいいなら、椎弥は貯金と片手間にやっている株トレードだけで一生皓汰を食わせてやれる。櫻井先生のやる気を削ぎたくないので口にはしないが。  結局一度もよそに移らなかった球団の応援歌を口ずさみつつ、耳のないパンに室温に戻したバターを塗り、ワインビネガーに漬けておいた四角いキュウリを並べていく。キューカンバーサンドは皓汰のお気に入りだ。 「帰ったのか」  皓汰のものより低い声と共に、ダイニングに男が入ってきた。皓汰の父の桜原太陽たいようだ。二十歳そこそこで二児の父となったそうで、年齢は椎弥の両親より五つほど若く五十になったばかり。骨格は皓汰よりがっしりしているが、顔立ちはタイムラプス写真みたいに似通っている。 「お父さんも、昼食サンドイッチでいいですか?」  太陽は頷いて食卓につき、煙草に火を点けた。決まってメビウスのオリジナル。こだわりというより変えるのが面倒なようだ。皓汰は気分ですぐに浮気するのに。  椎弥は馴染んだ紙煙草の匂いを嗅ぎながら、太陽の好きな玉子サンドのペーストを準備する。  家主である太陽は、椎弥がこの家に住むことに全く反対しなかった。手土産持参の挨拶で戸惑った様子だったのは、椎弥のファンだからというだけらしい。  桜原太陽は息子と椎弥の関係についても、唐突な引っ越しについても何ひとつ訊かなかった。椎弥と皓汰が同性であることも、こうなった経緯のことも。ただ深々と頭を下げて、不束な息子ですが頼みます、と絞り出し、寿司をとって三人で食べた。  以来椎弥は彼の二人目の息子になった。特に気遣いもされないし邪険にもされない。家族として、皓汰と同じ距離感で――つまり余計な干渉をされずに過ごさせてもらっている。 「ところでな」  太陽は紫煙をくゆらせ、どこから持ってきたのか分からない接続詞を浮かべた。 「あれの母親が近いうち戻ってくる」 「奥さんがですか?」 「元だが」  口の減らない皓汰と違い、父親はあまり言葉がうまくない。そのうえ表情に出ないので何を言いたいのか掴むのにコツがいる。だが今回はそのテクニックを使う暇もなかった。  玄関からガチャガチャと錠の外れる音。椎弥はエプロン姿のまま急いで廊下に飛び出す。  女がいた。黒いショートボブの女。三十代のように瑞々しくも六十代のように疲れきっても見える。 「あら。あなたが皓汰の奥さん?」  落ち着いた艶のある声と、人を食った老獪な笑み。実物は写真以上だなと怯んだ本音を押し込めて椎弥は笑い返した。 「三住みすみ椎弥といいます。お目に書かれて光栄です、柏木かしわぎ夢子ゆめこ先生」 「ご存知なの? だったら話は早いわね。皓汰の母の柏木です、よろしく」  皓汰と柏木夢子の関係を椎弥が知ったのは、四年前のマンションで食事を共にした夜だ。スミレの写真を見たときの態度が引っかかって、皓汰が帰った後すぐに調べた。本人は今になっても母親の話を一切しないので、椎弥は彼女が皓汰の敵か否かをまだ決めかねている。  靴を脱ぐ柏木の横から、椎弥はスーツケースを框に引き上げた。 「ヨーロッパでお仕事されてたんですよね。無事にお帰りになって何よりです。あの辺りは近頃きなくさいですから」 「詳しいのね。パートナーの身辺を嗅ぎ回るのはお好き?」 「好きというより習い性ですかね。子供の頃は名探偵になるのが夢だったんですよ。日本ではどうやらそれじゃ食べていけないと分かってからも、調べる癖だけは抜けなくて。育ちが悪くて面目ありません」 「そう? 三住製薬の御曹司にしては上等なご趣味だと思うわ。わたしもそういうのは大好き」  淀みなく、歌うように答える柏木。あの父親でどうして皓汰がああなったかと思っていたが、道理だ。彼は間違いなくこの女の血を継いでいる。  どたどたと慌ただしく皓汰が降りてきた。だらしない浴衣姿のままだ。いくら綿入れを羽織っても胸元が開きすぎている。 「おかーさん、またいきなり帰ってきて……」 「ただいま皓汰。おじいちゃんの服、着ることにしたの? よく似合ってるわよ」  柏木夢子は椎弥の手からスーツケースを取り、中廊下を奥へと進んでいった。  皓汰が歩み寄ってきて険のある声で耳打ちする。 「椎弥、大丈夫? 変なこと言われてない?」  息がかかってこそばゆい。椎弥は冷えた板の間で、大事な人の襟をかき合わせる。 「それよりこーた、やっぱ浴衣で寝るのやめたら? はだけすぎだって」 「だって」  二十九歳の成人男性が、悪びれもせず片頬を膨らませた。 「和装えっちって興奮するんだもん」 「……それは」  椎弥は咳払いしたが、赤くなった顔は隠せなかった。  椎弥との声明を出すにあたり、皓汰は性別を問わず全てのセックスフレンドと手を切ってくれた(彼との日々を週刊誌に売る不届きな輩はいないかと、椎弥は嫉妬半分探ったが、彼・彼女らは見事なまでに櫻井皓を知らなかった)。皓汰の性欲は椎弥一人に集中することになり、昨晩も――。  首を振って邪念を払い、椎弥は皓汰の帯を結び直す。 「直しても直しても気付くとべろべろにするだろ、いい加減風邪ひくよ。おれパジャマ買ってあげたじゃん」 「いやアラサーの男にウサ耳もこもこパーカー着て寝ろって結構な要求だよ?」 「かわいいよ」 「かわいいけど」 「似合うし」 「似合うけど」 「じゃあ問題なしでしょ。はい拗ねてもかわいい」  むくれる皓汰の頬を両手で撫でる。  まっすぐで短い眉、切れ長の黒い瞳、小さくて薄い唇、極めて和風なパーツが、顎先に向かうにつれすらりと細くなる顔の中に退屈そうに収まっている。たまらなくなって抱きしめた。ずっと思い描いてきた顔貌とは何もかも違うのに、どうしてこんなに手離しがたく感じるのだろう。 「どしたの? 我慢できなくなってきちゃった?」  皓汰の手がふわりと椎弥の首に回る。強引にキスされる。身体の芯から欲望を引きずり出すように、厚く熱い舌が絡む。つま先まで冷え切るような真冬の玄関で、淫猥な炎が熾る。 「皓汰。椎弥くん連れてこっちへいらっしゃい」  見計らったとしか思えない呼び声に、椎弥は視線を背けて身を離した。  柏木夢子、フォトグラファーにして桜原皓汰の実母。一筋縄ではいかないか、と椎弥は指の背で自分の口唇に触れた。  椎弥はここに来てしばらく客間を借りていたが、今は皓汰の姉が使っていた部屋をあてがわれている。当人が快く譲ってくれたのだ。ありがたい反面、生まれ育った場所を笑顔で手放せる自信が正直羨ましかった。椎弥は実家の部屋に暗い思い出しかない。  その部屋に新調したベッドを置いた途端、皓汰がマーキングに来た。元が姉のテリトリーだとかそういうことは頓着しないらしく、こっちの方が広いからとほぼ毎晩布団に潜り込んでくる。  今夜も皓汰は当たり前にやってきて、当たり前に椎弥にまとわりついた。 「椎弥、いつもより激しくなかった? 女の喘ぎ声聞くの初めて?」 「……それ別にカンケーないよ」  品のない質問に、椎弥は眉をひそめて寝返りを打つ。  いつもより余裕なく求めた自覚はあった。皓汰が来る前から身体が熱かった自覚も。真下の部屋から断続的に聞こえる情事の声に、有体に言えばあてられたのだ。  椎弥は女を抱いたことがない。男に抱かれたことも、目の前の相手の他にはない。他人の婀娜声を耳にして真っ先に浮かんだのは皓汰の白い肌だった。陽を忘れ夜ばかり食んで生きている不健全な肌。 「こーたも声大きいじゃん。二人に聞こえたかも」 「いいよ、親父は今更だし。お袋も親子だなーってぐらいしか思わないでしょ」  少しは恥ずかしがるかと仕掛けた意地悪も、皓汰はあくびひとつで片付けた。一方的にダメージを負った椎弥は黙り込む。  皓汰の声が大きい――多分だ、椎弥の中に比較対象はない――のは、最初の男が彼をそう躾けたかららしい。今では声を上げないと気持ちよくなれないと笑っていた。笑っていた分、椎弥はその男をどうにか見つけ出して殺したくなる。皓汰が望まないからしないけれど。 「喉乾いたろ。水持ってくるよ」  自分の服の代わりに、皓汰が寝間着にしている櫻井はじめの浴衣を羽織った。ありあとぉ、ともう半分眠っているような口調で皓汰は枕に突っ伏す。椎弥は皓汰の髪を一撫でしてから身なりを整え、廊下に出た。そっと階下に降りダイニングを覗く。  先客がいた。柏木夢子だ。この冷えるのにボトムスを身に着けていない。着丈の長いネイビーのトップスから覗く脚は細く引き締まっており、おばちゃんのパジャマ姿と呼ぶにはかなり色香が勝っていた。  柏木は椎弥に気付き、黒いボブカットを余裕ありげに揺らす。 「お先にいただいているわよ。ミルクでいい?」 「いえ、お気遣いなく」  椎弥は笑みをつくって距離を取った。冷蔵庫ではなく水道からマグカップに水を注ぐ。電子レンジに入れて六〇〇ワットで四十秒にセット。猫舌の皓汰でも一気飲みできる温度にするにはこれが一番。  椎弥がレンジの前に突っ立っている間、突然柏木が口を押さえて笑い出した。  なにか、と気の進まないながら問うと、いえ、と笑みの消えきらない声で柏木が返す。 「あの子も『普通』のセックスができないのねと思ったら、やっぱり親子ねと思えただけ。気を悪くしないで頂戴。あなたがどうこうということではないの」 「でも、それは……自分も訊く権利があることですよね」  椎弥の強張った声を揶揄するようにレンジが鳴る。柏木は、片手でとんとんと食卓を叩く。椎弥は肚を括って椅子に座る。  柏木が手にしているのはホットミルクだった。独特の香りが鼻腔に届くが、味は匂いほど甘くないことを椎弥は経験上解っている。 「あなたが興信所みたいにわたしについて嗅ぎ回っていたことはもう聞いたわ。どこまで知っているのか話してもらいたいの。その方がお互い手間が省けるでしょう」 「素人が個人で動いただけです、肝心なことはほとんど知りませんよ。たとえば、貴女が十五年前太陽さんと離婚したこと、そしてその翌年、ご両親と民事で争ったことぐらい。確か争点は『虐待を理由とする扶養義務の拒否』でしたか?」 「本当に、皓汰はとんでもない子を見つけて来たわね」  柏木は首を振ってからミルクを口にした。見つけたのは皓汰ではなくこっちだ、という主張は本筋から離れるのでやめる。  柏木の視線が壁を伝って奥の部屋に向かう。桜原太陽の自室だ。椎弥が借りている部屋の真下。 「太陽がどうしてわたしと結婚したかは調べた? もしくはその『虐待』の内容について」 「いえ、そこまでは、さすがに……記録に残るようなことでもないですし」  椎弥は言い淀んで、皓汰のために用意したはずの白湯を一口飲んだ。  桜原太陽と柏木夢子が結婚したのは二人が十八のとき。長子が生まれたのが十九のとき、皓汰が生まれたのは翌々年の二月。八〇年代といえばそこまでの昔ではない。若くしてせっつかれるように家族をつくったことには、何らかの理由があったはずだ。しかしさしもの椎弥も皓汰から軽蔑されることを怖れて深くまでは踏み込めなかった。  柏木はつまらなそうに、だがはっきりと言葉を継いだ。 「彼は同情で私をこの家に住ませたのよ。わたしはその見返りに子供を産んだ。愛していた人はお互い別にいたの。……あなたたちみたいに」 「は?」  喉の奥の奥から不遜な声が出た。  違う。自分は皓汰を愛している。皓汰も、彼なりに椎弥を想ってくれているはずだ。 「わたしに虚勢を張るのは構わないけれど、自分たち自身にするのはやめた方がいいわよ。わたしたちはそれで二十年を棒に振ったわ。若かったからやり直せたけれど、あなたたちはもう三十でしょう。遠回りしている暇があるの?」 「おっしゃる、意味が」 「解らない? なら皓汰とは別れた方がいいかもしれないわね。あの子はわたしよりずっと聡いし、太陽よりもずっと繊細だもの」  いっそそうあってくれればよかったのに、柏木の顔に悪意は見受けられなかった。  本気の忠告なのだ。彼の母の。同情で愛のない男に囲われた人の。 「考え、させて、ください」  椎弥はマグカップを手にダイニングを出た。適温のはずのお湯はすっかり冷めきっていた。

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