フェードイン フェードアウト
好きになれると思った

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 第二音楽室で、アラタが思わず入部宣言をした翌日の昼休みのことだ。  一年三組の前方ドアに血栓のように人が詰まっていた。  チャイムが鳴るやいなや、購買部で昼を調達する予定の生徒たちが、我先に廊下へ出ようと出入り口に押し寄せていくのはいつものことだ。それなりの詰まりが発生するのもいつものことだが、今日はとみに流れが悪い。まるで堰でもあるかのように。   「真島アラタって居る?」  重なり合う頭の向こうで、アラタを呼びつける声がした。  張り上げられた声では無かった。だがドアから遠い窓際の後方席で弁当を広げんとしていたアラタのところにも、その声は明瞭に届いた。  質問の形をとっては居るが、額面通りの意味は含んでいないだろう。声の主の言いたいことはつまり、「真島アラタはここまで出てこい」ということだ。  その不遜な言葉に、声の主を察したアラタは、解きかけた弁当包みを大人しく結び直した。昨日の部活見学の結果を報告し合おうとしていた、向かいに座る友人は呆けた顔で立ち上がるアラタを見上げる。 「言ってなかったけど、昨日軽音部に入ることになったんだよ。そこの一年のやつが呼んでんだと思う」 「軽音部って、お前音楽好きだっけ?」 「わかんね、好きになるかもって思った。あとなんか、流れで?」 「適当だな相変わらず」 「そういうわけだから、ごめん。ちょっと行ってくるわ」  包みの結び目のところに指を引っ掛けたときに、逡巡があった。自分に、そんな長話をするつもりがあるのだろうかという疑問と、どこで食べるのかという実際的な問題が浮かぶ。確かなのは、今机を合わせているグループに招き入れるのはきっと違うという気持ちだ。アラタとしても、おそらく奏にしても。  相変わらず混み合う前方の出入り口を避けて後ろのドアから出てみれば、川にさされた棹のように奏が廊下に立っていた。奏の左右に人が流れていく。あからさまに迷惑そうな顔をして避けていく生徒たちのなかには、わざと肩が触れ合うくらいの近さで避けていく者もいる。だが奏はあくまで自然体に、物としてそこに立っていた。  生徒たちは急いでいるのもあるが、奏の動じなさに一種近寄りがたさも感じているのだろう。直接文句を言う者はいないようだった。 「なんであんな、出入り口に陣取っちゃうかな」  一瞬、やはり関わるのを止めたくなったものの、名指しで呼ばれていたので逃れようがない。仕方なく、こころもち肩をすくめて恐縮の意をアピールしながら、人の流れを遡って後ろから奏に近づいた。 「そこ邪魔だから、とりあえずどっか移動した方がいいよ」 「お、真島アラタじゃん」 「呼んだのお前だろ、行くぞ」  そう顎で曖昧に廊下の先を指してみたものの、どこに行こうというのかアラタも決めていない。 「俺はここでも良いんだけど」 「だから邪魔なんだよ。あと飯、食いたいし」  いいかげん人の目が気になって、奏の腕をひいて強引に廊下の端に連れていく。その鼻先に弁当の包みを突きつけると、奏は「飯食うとこかあ」と考える顔をした。そういえば、奏は手ぶらだ。 「教室に置いてきた? それともなんか買うの? もうろくなもん残ってないと思うけど」  ぺらぺらのハムとレタスが挟まっているだけなのになぜか300円するサンドイッチとか、どうして仕入れているのか理由が分からない月餅や大福とか。出遅れて行った先の購買部には、そういった微妙にそそらないものしか残らないらしい、というのは弁当派のアラタでも知っている常識なのだが、奏はそんなことすら知らなさそうだと思った。 「昼は食べない。いいや、じゃあ俺のクラス行くか」 「食べないってどういうことだよ」 「そのままだよ、食べないんだ。昼代はもらってるけど、それをそのまま貯めたいから」  奏のクラス、一年一組はアラタのクラスの隣の隣だ。だからたった三言の会話で教室に着いてしまった。しまった、というのは、そこが一年一組だったからで、一組には学年、いや学校中で話題の美人が居るからであった。 「ちょ、待って待って。一組ってお前、あれじゃん。話題の一組じゃん。俺入ってけねえよ」 「話題の一組ってなんだよ」  せっかくアラタが小声で言ったというのに、奏はわざわざ通る声で復唱しながら教室のドアを無造作に開ける。奏の席は教壇の真ん前らしく、教室の前の通路をずんずんと進んでいく。  ポニーテールの気の強そうな女子が、奏の席を占拠している。その女子と向かい合わせに置かれた机で、小さな弁当箱を広げているのが噂の女子だというのはすぐに分かった。入学式当日に物見遊山気分で一組を覗いた時は、上級生たちの壁の隙間から明るい茶色の髪が見えただけだった。校則違反の髪が同じだというのもあるが、顔立ちだけで噂の彼女だというのは疑う余地がなかった。話題になるだけはあるな、と思う。出来るだけ見すぎないように、でも視界の端から逃しがたい気持ちには逆らえないまま、弁当を下げて他所のクラスに立つ自分が間抜けだった。  奏の名字はたしか高木と言った。噂の美人は鷹藤真理奈だ。タカギ、タカトウ。つまり五十音順に席を配置した結果、奏はこの美人の前の席という幸運に与っているわけか、とアラタは思った。  状況にそぐわない落ち着いた仕草で卵焼きを半分に切って口に運ぶ真理奈を見つめながら、もし今彼女が顔を上げて自分を見つけたら、手にさげた弁当包みの黄緑色とオレンジ色の大柄のチェックは子供っぽく映らないかとアラタは落ち着かない気持ちになった。  実際のところ、真理奈は教室に入る瞬間のアラタの全体像を素早く見てはいた。彼が気にしていない素振りをしながらずっと視界の端に自分を収めているのを感じとってもいた。しかしそんなことは彼女にとっては日常すぎてつまらないことだった。 「今日はここでご飯食べるの? どうしよう、どくかな」  ポニーテールの女子は奏を見上げて言うには言うが、どしりと椅子に落ち着けた尻を浮かそうという素振りもなかった。奏は「いいよ、食べ始めてんのに。あっちで食べるわ」と教卓を指した。「台さえあればいいんだから」とも言った。 「あは!」  卵焼きを飲み込み終えたらしい真理奈が、上目遣いに奏に笑いかけた。 「やっぱ面白いよね、奏くんて」  それは目の前のポニーテールに向けて放たれた言葉で、ポニーテールも追従して笑ったりしている。真理奈たちには、奏の座席を占拠している気まずさなどどこにも無いらしい。真理奈の、細められた目尻に、長いまつげが楽しげに跳ねている。彼女が後ろの席に居たらとても勉強にならないな、と奏への同情の念を抱いたが、当の奏はさっさと教壇に上がって教卓の横に床座りになってしまった。早く来い、と言いたげにアラタを見ている。  仕方なしにアラタは、くるくると回る教師用の椅子に座り、他所のクラスの教卓で弁当を広げる羽目になった。不躾な視線が教室のところどころからよこされて、真理奈はそれ含みでおかしいといったように笑っている。もはや弁当包みが子供っぽい柄なのではないかとか、そういう問題ですらなくなってしまった。  知るか、とヤケクソで口に放り込んだソーセージはどんな状況下でも変わらずソーセージで、肉の旨味と強い塩気に誘われて米を口に詰め込むと、段々とこの状況が愉快なような気持ちになってきた。弁当はうまい。人の視線に囲まれて何かをするというのも、落ち着かなくはあるが、それがまた気持ちよくもある。どうだ、俺はよそのクラスの教卓で弁当を食い出すようなヘンな奴にだって平気でなれるぜ。時折チョークの匂いに我に返って弁当が変な味になるけれど、次の一口を詰め込んでしまえばそれも消える。そうして五分とたたずアラタは弁当を完食した。  奏はというと、教壇にあぐらをかいたまま、そんなアラタをただ見上げて黙って見ていた。アラタが最後の一口を飲み込み終えたところで、やっと、というように立ち上がり、教卓に左手をついて言った。 「入るんだよな、部活」 「入るよ。言っちゃったし」  右下の、奥歯の手前の歯にひじきが挟まっているような気がして舌でいじりながら答える。水筒を持ってくるのを忘れていた。 「楽器は初心者なんだろ、好きなの? 音楽」 「好きになるかもってくらい。どっちにしろ、俺にしっくりくる部がよかったから。上下関係とかうるさくなさそうで、無意味なことさせられないようなところ」 「幽霊部員になるってこと?」  奏の目が細められて、教卓に乗せられていた左手が浮いた。教卓から遠い方の右足に体重を移動させようとしている。奏の興味があっけなく失われようとしているのを感じとって、アラタは慌てて言葉を続けた。 「違う違う、やるよ。何やればいいかも分かんないけど、とにかく好きになりそうだったんだよ、昨日の演奏も良かった。良かったよ本当に」  奏の動きが止まって、それから細長い体がゆっくりと動作を再開する。両肘を預ける形で教卓に上半身の体重を任せきって、奏はアラタの顔をまじまじと見た。 「American Idiot か」 「昨日も先輩が叫んでたけどなにそれ」 「曲名だよ。GREEN DAYの。俺は別にすごい好きってんでもないけど、フレーズは弾けるし、あの単純そうなドラムの……名前忘れたけど、あの先輩煽るならああいうのがいいかと思ったから」  にやりと笑う奏の顔は、わざと意地悪い顔を作ろうとしているように見えた。 「お前先輩の前でそれ言ったら絶対またキレられるぞ」 「気をつけるよ」  次の瞬間には忘れていそうな、そんなおざなりな返答の後、奏は真面目くさった顔を作って言った。 「良かったってのはどこが良かった?」 「急にそんなん言われても分かんねーよ。とにかく空気がびりびり言って耳が壊れそうな音にビビったってだけで。でも楽器の音? タイミング? がハマってひとつの轟音になるってのが気持ちよかったし、かっこよかった。体に響くのが先か耳に聴こえるのが先か心が感じるのが先か、全部同時なのかな? そういうごちゃっとした感覚に飲み込まれるような感じだよ。気持ちいいってのは。まあ、ああいうことをしようとして、俺に何が出来るのかは分からないけど」  素人丸出しの感想で、バカにされるかと思ったが、予想に反して奏は納得したように頷いた。 「昨日はギターとドラムだけだ。それでもまあ、あのくらいのテンションにはなる。他に足りない楽器があったけど、何か分かる?」 「あー、えーと」  薄い知識を総動員して思い出す。音楽番組で見かけるバンドっていうのは大抵4人で、それは知ってる。 「ベース?」 「そう」 「今もしかして基本以前の質問した?」 「音楽好きじゃない人間っていうのが周りに居なかったから、どこに基本があるか知らない。とにかくベースが正解。まだ楽器決めてないんだろ、うち来てまずはAmerican Idiotの原曲でも聴いてみろ。それでベースの意味が分かったら、触ってみろよ。うちに使ってないのがある」  昨日の今日で随分と性急な話ではある。ただ奏の真剣さは、放っておかれたらのんべんだらりと中学生活を終えそうなアラタにとって眩しいものだった。  先程、「幽霊部員になるってこと?」と一瞬で興味を失う素振りを見せた奏に、アラタは確かに焦りを覚えさせられた。それは直感として、奏と並んで見られるかも知れない数々の景色を失うことへの恐れからだったかもしれない。 「じゃ、決まりな。今日そっちの教室行くから」 「今日の今日かよ。部活は?」 「まだ部員募集でだらだらしてるだけで何も始まらないだろ」  なるほど、言い方は身も蓋もないが、予想は当たっているだろう。 「それなら俺がこっちのクラスに迎えに来るよ。こっちの方が階段近いんだから、お前が三組来たら無駄に廊下往復するだけになる」 「お前、『話題の一組』になんか入れねえって、さっき言ってたけど」 「バッッ……カ……」  奏の口を手のひらで覆って制す。自分のダサい発言は学校のアイドル・真理奈のところまで届いてしまっただろうか。恐る恐る肩越しに見た真理奈は、とうに弁当を食べ終えて、向かいのポニーテールに加えて左右にもとりまきの男子女子を従えて「やーだ!」と笑っていた。  聞こえていないのならばよかった。笑う時に口を抑えるのは癖なのだろうか。そう思って見ていたところに、不意に真理奈の黒目だけがきゅっと動いた。ピアノ線のように真っ直ぐで硬質な視線がアラタを貫いた。  視線はすぐに、取り巻きたちの顔へと戻された。 「やっぱ授業終わったら……廊下で待つから……。呼ばないから勝手に出てこいよ」 「あ、そう。なんでもいいけど。じゃ、今日な」  何も気づかなかったらしい奏は、そうとだけ言い残すと教壇から降りて、ポニーテールに席の返却を要求しに行ってしまった。

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