漢字徒然
「海」 第二話

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「アカペラ、興味ありますか」 「え?」 「——え?」  教育学部の講義棟の壁一面に貼り出されたサークル勧誘のポスターやチラシを見ている学生に、勧誘の手が伸びないわけがない。驚いた私にその人も驚いてしまっただろう。いかにも、といった芋っぽい服装でうろうろしていたら、誰だって勧誘を待っている新入生に見えるだろうに。 「君が見ていたの、アカペラサークルのものかと思ったんだけど、違ったかな。……ハハ、ごめんね」  肩を落として去っていくその人に、申し訳なさを感じた。その人は、私がここで音楽系のサークルのポスターばかり見させられている理由を知らない。 「あ、あの」 「え? あっごめんね、怖がらせたよね」 「違うんです。その、興味、あります」  一通り話だけ聞けたらいいと思った。携帯のショップで、無料で電源を借りる代わりにセールストークを聞くようなもの。迷惑をかけた詫びに、ノルマをこなさせてあげる、程度の、悪意のない等価交換のつもりだった。 「あ、そうなの?」  しまった、と思った。罪悪感が、ゾワゾワと目と目の間を走っていく。潤滑油としての、社交辞令としての言葉を真に受ける、うぶな男の人。サークルの勧誘を任されているからには少なくとも私よりは学年が上なのに、変に幼く見えてしまう。  あまりにも中途半端に、その人は話しはじめた。壁沿いのベンチに私を座らせることもせず、講義室に向かう学生たちの動線を邪魔する位置で、立ったまま、熱く語り始める。アカペラは楽器を使わない。パート分けはベースとパーカスと和音組とボーカル。そこまで聞いて意識は他に向いた。こんなヘマしたらあの子は絶対許してくれない。  すぅ、と体が冷えた。この人はきっと、誰かを傷つけたことも傷つけられたこともない。そう唐突に思った。車椅子の幼馴染にアゴで使われ、つらい記憶のある音楽の情報に触れさせられ、いまもほくそ笑みながら自分を待つあの子に、これからサークルのポスターのことを話す私は見下され。そういう悪意とか、憎悪とか、そういうものに無縁で生きてきた人なんだ、って思った。  携帯のバイブレーションが鳴った。いつもは嫌で仕方ないけれど、そのときは正直、助かったと思った。 from: ゆか to: かおり title: ねぇ。 ——————————————— まだなの。 ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ 音楽特待生のあんたが、おままごとレベルの大学の音楽サークルの、要点も把握して私に教えられないなんてことないよね。 「すいません、用事を思い出しました」  午後の講義がもうすぐ始まる。遅刻しそうな学生の塊を躱すようにして、私はその場を去った。

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