ひさしぶり、と彼女は言った。これを聞くのは今日で五回目になる。 長谷川エミカは二週間前、深夜の路上で暴行を受け、全身に打撲や骨折を負って病院に運ばれた。犯人は不明で、彼女自身も覚えていないという。 それはよりにもよって僕の家の近くで起こったことだったので、仕事帰りに近所の人から耳にした。特徴的な赤いコートを着ていたと聞いてすぐにエミカのことだとわかった。僕がプレゼントしたものに違いないからだ。それで、彼女のことが心配になり病院へ駆けつけたというわけだ。だが、安易に見舞いに行くのは少し抵抗があった。僕とエミカは三ヶ月前まで恋人同士だったのだ。 別れた原因は、全面的に僕にある。 エミカは今時珍しい共用風呂のついた安アパートに住んでいて、真っ白い綿のようなウサギを飼っていた。彼女は小動物が大好きで、時々僕が邪魔者なんじゃないかと思わされるくらい病的にウサギを可愛がっていた。僕は彼女との将来を見据えていたし、ウサギは嫌いじゃないので撫でたり餌やりもしてやった。それなのに、奴はある日突然、僕に牙を剥いたのだ。 その日の昼下がり、僕とエミカはソファにもたれてうとうとしていた。ウサギは彼女の膝の上でおとなしく丸くなっていたが、ふいに顔を上げて僕の膝へやってきた。僕はウサギの頭に何気なく手を近づけた。その刹那――鋭い前歯が僕の人差し指にがぶりと噛みついたのである。甘噛みなんてものじゃない、そのあまりの痛さに、僕はウワッと呻いて反射的に腕を振り回した。 ウサギの身体は僕の指から離れて吹っ飛び、背後の壁に叩きつけられた。そのまま、きゅうと言って動かなくなった。 僕は慌ててウサギを抱き上げようとしたが、木の実のはじけたような目を剥いているのを見てぞっとなり、恐怖と狼狽で頭が真っ白になっていた。 ――うそだろ? ――そんな、簡単に? そうしている間にも小さな白い体は急速に温度を失っていく。 「どうしたの?」 気がつくとエミカが寝ぼけ眼にこちらを見ていた。 僕はただただ焦った。動かなくなったウサギを前に、ごめん、本当にごめんと繰り返した。エミカはようやく状況を理解すると、しばらくの間、蝋のように真っ白い顔でウサギの体を抱きしめていた。小さな前脚を握ったりピンク色の鼻先をつついたりした。そして唐突にワッと泣き出した。 ウサギの死体は、本当はいけないことだがアパートの庭の片隅に埋めさせてもらった。その作業はエミカ自身が行い、僕はただ隣で見守っていた。その間もひたすら謝り続けていた。一刻もはやく、赦されたかった。 エミカは僕の謝罪に首を振るばかりだった。その日はそれだけだった。何もできないまま僕は家に帰るしかなかった。 その翌日だった。仕事終わり、彼女からメールが届いたのである。 『別れよう』 たった四文字。 その内容に納得のいかない僕はたまらず電話をかけた。だが彼女は出ない。せめて理由だけでも教えてくれと再三メールを打つと、ようやく返信が届いた。 ウサギを、あなたに殺されたことが、赦せないの。 この時、改めてあのウサギが彼女にとって何ものにも代えがたい存在であったことを痛感した。だが同時に、そんなことで別れるなんて、と僕の心に不満が湧いた。だって、あのウサギは僕の指を噛んだのだ。ウサギの歯は凶器だ。あれを突き立てられて平気な顔でいられるわけがない。反射的にやってしまったことだ、悪意なんかなかったのに、と。 だから僕もそれ以来連絡をしなくなった。僕らは事実上、恋人関係を断ち切ってしまったのである。 その三ヶ月後、エミカが全身に大けがを負った。僕が初めて見舞いに行ったとき、彼女の頭や肩、腹部、腕や脚にかけて痛々しく包帯が巻かれていて、顔は整形手術に失敗したかのようにひどく腫れ上がっていた。久しぶりに見る彼女の変わり果てた姿に言葉を失い突っ立っていると、エミカはひきつるような微笑を浮かべた。 「ひさしぶり」 弱々しい声に、僕は思わず胸を詰まらせる。 「ひさしぶり。――大丈夫なの?」 大丈夫なわけがないのに動揺のあまりくだらないことを訊いてしまう。彼女は固い表情で首を傾けた。 「さあ。まあ、こんなんだし」 どこかぎこちない、よそよそしささえ感じる口調だった。怪我の痛みのせいか、精神的にひどく参っているのかもしれない。 このとき僕は、彼女の姿を眼にしただけで突き上げるような衝動に駆られていた。脳裏には幸せだった日々のフィルムがいくつも流れ出していた。目の前の彼女の姿は変わり果てているがそんなことは関係ない。僕はやっぱり心の底からエミカが好きでたまらないのだ。 気がつけば僕はエミカに改めて謝罪していた。ウサギを殺してしまったこと、意固地になって連絡を寄越さなくなってしまったこと。そして、 「今更だけど、まだ君のことが忘れられないんだ。……あれからずっと、後悔していたんだ」 もう一度、チャンスをくれないかな。 僕は精いっぱいにまっすぐ彼女の瞳を見つめて言った。 彼女の黒い瞳は迷うように一瞬、揺れた。 それから、だまって首を横に振った。 ショックに打ちひしがれつつも、部屋を出てから医者にエミカの容態を訊ねた。そして、彼女は事件のことがまるきり記憶から抜け落ちており、直前までのことは覚えているのに、自分が暴行を受けた場面だけを覚えていないから警察の捜査も難航している、ということを知った。 そうか、だからか。彼女にしてみれば、突然身に覚えのないことで全身大けがをして病院にかつぎこまれているのだ。本人が一番混乱しているし、事態を受け入れられずにいるだろう。それなのに唐突にずけずけと復縁を迫るなんて僕も思慮が足りなかったと反省した。 これが一日目の出来事だ。そして次の見舞いで事態は急変する。 その一週間後、僕は再びエミカの病室を訪れた。手にはエミカの好きな白い百合の花束を持って。 「ひさしぶり」 彼女は僕の姿を見るなりそう言った。 前回会ってから一週間。まあ久しぶりといえば、久しぶりなのか。僕は内心やや訝しみながらも笑って「ひさしぶり」と返した。 「これ、どこかに飾れないかな……」 「わあ、きれい。ありがとう」 エミカは嬉しそうに花の香りを嗅いで、ベッド脇の棚に置く。ひとまず喜んでもらえたので僕は胸を撫で下ろす。 「あれからどう? 怪我、ちょっとはマシになった?」 「あれから? ――ああ、事件があってから?」 彼女が眉を寄せて聞き返してくる。その時点で、あれ、ちょっとおかしいなと思い始めた。 「ええとね、なにしろ私が全然覚えてないから……気がついたら病院だったんだもん。怪我は……これから良くなるよきっと」 ごくり、僕は生唾を呑み込んだ。良くない予感が胸を占めて、思わず身を乗り出す。 「えっと、あのさ。僕……前回来たの、いつだっけ」 「前回? なんの話?」 エミカの愛らしい大きな眼が、きょとんとまん丸になる。 僕の悪い予感が的中した。 僕は叫び出しそうになるのをこらえながら、もう一度口を開いた。 「僕……どうしても、君に謝りたいことがあるんだ」 ウサギを殺してごめん。 僕も意固地になっていた、とても後悔している。…… 好きだとかやり直したいということは言わなかった。ただ前回伝えたことをもう一度彼女に聞いてもらいたかったのだ。 彼女の瞳がわずかに揺れる。深淵のような暗い瞳。それが再び僕をまっすぐに捉えたとき、 「ああ、うん」 と目を逸らし、膝上に落とした。 何か硬いものを丸呑みしたような、ひどくこわばった声だった。エミカの本心はまだ、僕を赦していないのかもしれない。 見舞い三日目。病室の扉を開けるとエミカはまた「ひさしぶり」と言った。前回の訪問から二日しか経っていない。 これには医者も首を捻っていた。というのも、彼女は僕の訪問の記憶だけ一日でリセットしてしまうというのだ。さしもの僕も衝撃のあまり途方にくれた。 それほどまでに僕の存在が嫌いになってしまったのか。ウサギを失った悲しみと僕への怒りが強すぎて、事件で脳になにかしらの障害ができたのをきっかけに僕のことだけ頭から除外するようになったのかもしれない。 こればかりは精神的なことなので医者にもどうすることもできないみたいだった。 僕はずいぶん迷ったが、やはり見舞いだけは続けることにした。 毎回必ず白百合の花を買って。 彼女と「ひさしぶり」の挨拶を交わして。 それから怪我の具合を訊ねて、彼女に謝罪する。 ウサギを殺してごめん。 君の心をちゃんとケアできなくてごめん。 それから彼女の記憶がリセットされる前に、僕はこう付け足すことにした。 「それでも僕は、君を今でも愛している」 はっきり付き合ってくれとは言わない。ただこの想いを口にすることに意味があった。ひたすら彼女に伝え続けていたかった。 エミカが僕の訪問を毎回忘れてしまうのは、実は好都合なのかもしれない。はっきり「来るな」と言われなければ、ウサギのことを赦してもらうのを口実に彼女の元へ通い続けられるのだから。 大切なウサギを殺されて、全身に怪我まで負わされて。彼女のことを本当に考えるのならば僕は病室に顔を出すべきではない。それなのにこうして執着している僕は、彼女が思う以上に無神経でひどい男なのだろう。 今日で五日目。僕は病室の入り口で、笑顔になる。 「ひさしぶり。怪我の具合はどう?」 *** ウサギが死んだとき、泣きたい気持ちとほっとしたい気持ちとが入り混ざって、私自身、とても混乱していたのを覚えている。 ウサギは前に付き合っていた彼氏からもらったものだ。私の小動物好きを知った彼は、誕生日のデートでペットショップに誘ってくれた。幸い私のアパートは小型のペットなら申請すれば飼育してもよかったので、一緒に吟味して子ウサギを買った。白色が好きな私は、染み一つない真っ白な毛並みの子を選んだ。 彼は毎日のように私の家に遊びに来ては、子ウサギをとても愛でてくれた。「まるで俺たちの子供みたい」と、びっくりするようなことも言った。この時から彼のことはちょっと変わり者だなあと思っていたけれど、特に気にはしなかった。 ところがつきあい始めて半年ほど経つと、段々彼との付き合いが億劫になっていった。 『仕事終わった? メールしてって言ったよね』 『昨日、知らない男と一緒に飲んでなかった? ばれないと思ったら大間違いだよ」 『友人に俺の愚痴を言っただろ。知ってるんだぞ』 こういったメールが毎日ひっきりなしに届くようになったのだ。 それだけでは飽き足らず、彼は自分がプレゼントしたアクセサリーや服を毎日着用するよう強要するようになった。一つでも外した日は、どうやって知ったのか怒りの電話やメールが怒濤のように押し寄せた。私はノイローゼになり、ついにある日、彼に別れのメールを送ったのだ。 案の定、それから鬼のような電話がかかって来た。怖ろしくて出るに出られず、仕事も仮病で休んだりしながらひたすら耐えていると、ようやく電話はぱたりと止み、 『わかった。俺とおまえは想いに差があったんだな』 と短い一文が届いた。 やっと事態が収束した、と胸を撫で下ろす。その直後、またメールが届いた。 『俺のプレゼントは全部棄ててしまって構わないが、一つだけ約束してほしい。俺と一緒に買ったウサギだけは大事に可愛がってほしいんだ。あいつが寿命を迎えるまで寄り添ってやってくれ』 それくらいなら、と私はすぐさま承諾した。元彼は嫌になったけど、この子に罪は一切ない。 それからようやく穏やかな生活が手に入り、私は精神的にも安らいだ日々を送っていた。そのおかげか新しい恋人にも恵まれた。 倉永タツヤとは知り合いの紹介で出会い、すぐに意気投合して仲良くなった。告白してくれたのは彼の方で、夜のドライブデートの果てに素敵な夜景を見せてくれた。 「ちょっと気障だったかな――」と、おずおずと差し出したのは、小振りな白百合の花束。 「白い色が、とにかく好きなんだよね? 色々悩んだんだけど、これが一番似合う気がしたからさ……」 今時告白に花束をくれるなんて、と驚きはしたが、それよりも彼の純粋な気持ちに強く胸を打たれていた。白い花ならなんでも好きだったけれど、この日以来、白百合の花が一番のお気に入りになった。 タツヤはまったく束縛しないし、自ら料理を作ってくれたりしてとても優しい人だった。比べるのは嫌だけど、やっぱり前と全然ちがう、と感じて日々感謝が止まらなかった。お泊まりした夜なんて感極まって泣いてしまったくらいだ。 だから、言えるわけがなかった。あなたとつきあっている今でも、元彼から手紙が届いている、だなんて。 新しい恋人ができたその日の夜に、アパートのポストに手紙が入っていた。無機質な茶封筒にメモ帳を切ったような紙が一枚。そこには殴り書きで『おめでとう。裏切り者』とだけ書かれていた。差出人はなかったけど、私には一人しか思い浮かばなかった。 それから手紙は毎日届くようになった。どういう手段をとっているのか、彼は私の行動のほとんどを把握しており、それを事細かに書いて送ってくるのだ。一度警察に言おうかとも思ったが、ストーカーについて検索してみると、どうやら手紙が届く程度では動いてもらえず骨折り損だという記事が散見されたので、思いとどまった。何もしてもらえないのに、警察に行ったことが彼に伝わってそれこそ逆上でもされたらと思うと、怖くて足が竦んだのだ。引っ越しも考えたが、元彼が引っ越し先を把握しないわけがない。かえって怒りをかってしまうのを恐れて何もできなかった。 こうして私は、再び元彼の恐怖に怯えながら日々を過ごさなければならなくなってしまった。 タツヤと会えない休日は家に閉じこもって過ごした。閉じこもっているとすることが限られてくる。一日スマホで動画を見たり、読書くらいしかやることがない。そうしていると必然的に、ウサギが構ってほしそうにやってくる。 膝の下をトンネルみたいに行き交ったり、かと思えばピンクの鼻をひくつかせて頬や額を擦りつけてくる。――ウサギはかわいい。本当にかわいい。だけどどうしても元彼の顔がちらついてしまう。考えまいとしても、ウサギを見るたびにしつこくつきまとう。その間にも手紙は毎日届く。幻影がウサギにまとわりつく…… 元彼に怯えれば怯えるほど、このウサギが憎らしくなってくる。元彼の存在を思い出させる枷になる。あまりに思い詰めすぎて、いっそこの子が死んでくれた方がいくらか気持ちが楽になるのにとさえ思ってしまった。そんな自分がたまらなく嫌になった。 そしてあの日――タツヤが、ウサギを死なせてしまった。 その直前、彼とこの子の間に何があったのかは見ていないのでわからないが、気がつけばウサギは壁際でひっくり返っていて、彼がひたすら謝っていた。床に小さな血の雫がわずかばかりにぴっと跳ねていた。ウサギの白い毛並みにも斑点のような赤い染みができていた。その光景を呆然と眺めて、彼のひたすら謝る声を聞き流しながら、私はただ――ひどく安堵していた。 解放された、と思った。それはウサギが死んだことに対する悲しみにも勝っていた。そんな自分が嫌で仕方がなかった。ウサギには、何の罪もないのに。 自らの手でアパートの庭に埋めようと決めたのは、せめてもの償いの気持ちからだった。 次の日の朝、出勤しようとアパートの玄関を出たとき、ふと自分のポストを目にして、ひっと固まってしまった。 ポストの口から白い紙があふれかえっていた。その異様な光景に思わずポストに飛びつき、蓋を開けにかかっていた。こぼさないよう気をつけていたつもりだったが、中のものは無残にも足元に落下してばらばらと飛び散った。 『赦さない、裏切り者』『大事にすると言ったのに』『ウサギと共に俺も傷つけられた』『責任をとれ』 殴り書きされたメモの切れ端の中に、写真もいくつか交じっていた。元彼と付き合っていた当時、かわいいと言いながら撮っていたウサギの写真。濡れた瞳をこちらに向けているウサギ、にんじんに齧りついているウサギ、身体を丸めて眠っているウサギ…… その中に、土に塗れたウサギの死骸が写し出されていた。ウサギとわかったのは乱雑に掘り起こされた周囲の土と、白い毛の名残が見えたからだ。到底、直視できるものではなかった。 もう限界だ――散乱したメモや写真を集めながら、眼に涙が浮かんだ。私にはもう、どうすることもできない。これは呪いなのだ。 その晩、私はタツヤに別れのメールを送りつけた。ウサギが殺されて怒っているふりをして。 彼は初め納得がいかなかったようで、何度もメールをくれたが辛抱強く耐えているとようやく諦めてくれた。僕よりウサギなのかと言わんばかりの態度に私も胸を痛めた。でも優しい彼をこの呪いに巻き込むわけにはいかない。逆上した元彼に傷つけられてからでは遅いのだ。 彼のいない日々は思いのほかつらいものだった。いっそ嫌いになって別れられたならどれほど良かっただろう。もう新しい彼女ができただろうかとか、街中で彼に似た背格好の人を見かけるたびにどきりとしたりして――だけど呪いの手紙は毎日欠かさずポストに届く。ウサギもいないから、私は家の中でひとりぼっちになってしまった。泣かない日はなかった。埋めようのない孤独の中で、私の心は鬱々とした感情に満たされていった。 それが良くなかったのかもしれない。 タツヤと別れて三ヶ月。私は仕事の帰り、いつもより頭がぼうっとしていた。常に泣きそうな精神状態だったためか、気がつけばいつもと違う電車に乗って、懐かしい駅で降りていた。彼の家の最寄りの駅だ。そして、ふらふらと夢遊病者のような足取りで、彼の家の近くの道を歩いていたのだ。 粉雪がちらつくほどに寒い、冬の夜だった。私はお気に入りの真っ赤なコートを着て住宅街をぼんやり歩いた。彼に会いたかったのか、それともただ、近くに行くことで心を安らげたかったのか、今でも当時の心境はわからない。 彼の住むマンションは住宅街の真ん中にあって、日が暮れたあとはとても静かだった。人の気配がほとんどしない。そんな中をたった一人で歩く私の姿は、傍から見れば不審者みたいだっただろう。 突然、私は何者かに後ろから口を塞がれた。そのまま地面に引き倒され、固い地面に後頭部を打ち付ける。痛みに呻いていると、がっしりした体格の男が私の身体に馬乗りになり、私の頬をばしんと打った。 それから息をする間もなく、私の頬や肩や腹は嵐のように殴られ続けた。抵抗しようにも拳や平手がひっきりなしに降ってくるのでどうしようもなかったのだ。 コート、コート……心の呟きはもしかしたら声に出ていたかもしれない。自身の痛みよりも、ぬかるんだ地面の上でタツヤからもらった大切なコートがぐちゃぐちゃに汚れてしまうことの方が気がかりで仕方がなかった。そんな私に容赦なく降り注ぐ、無慈悲で荒々しい拳の雨…… 男の顔が暗闇の中でぼんやりと浮かび上がった。私に呪いをかけ続けている恐ろしい男の顔だった。彼は私を殴りながら一言も発することなく、ただ涙を流していた。拳の合間に生温かな雫がぽたりぽたりと落ちてくる。私の腫れ上がった唇に塩気が沁みて、痛かった。そうしていつの間にか、気を失ってしまった。 次に気がついたときには病院にいて、警察のお世話になった。暴行を受けている私を見かけた近所の人が通報してくれたというのだ。それに気づいた男は逃げ去って、ぼろぼろの私だけが残されたのだ。 どういうわけか、犯人は私の赤いコートを持ち去っていた。タツヤに最後にもらったものだったのに……。包帯まみれの身体の痛みや醜く腫れ上がってしまった顔のことよりも、その事実は私の心に深い傷をもたらした。 だけど、これでやっと「実害」ができたのだ。今こそ全てを話すときではないのか……私は口を開きかけて、その直前でふいに思いとどまった。 彼は、何らかの形で私のすべてを把握している。今警察に話してしまったら、復讐にやってくるのではないか。 例え警察が動いてくれてもすぐに捕まるわけじゃない。その間に、私ではなくタツヤの方に殺意が向いたとしたら。 警察にタツヤを守ってもらうには、タツヤにも事情を話すことになる。別れてもう三ヶ月。彼も新しい生活を送っている頃だろう。その幸せに水を差したくない。忌まわしい呪いの渦中に彼を巻き込んではいけない……。 迷った挙げ句、私は記憶喪失のふりをした。だけど私は決して演技派ではないし、下手に大ごとにしてぼろを出したくはなかったので、事件のことだけ都合良く記憶から消えたことにした。 ――誰かから恨まれる覚えもありません。あの日は仕事で嫌なことがあって、ちょっと酔っ払っていて……すみません、その後のことは、何も。 私の記憶喪失により、警察も次第に来なくなった。ひとまずこれで丸く収まった、あとはゆっくりと怪我を治せばいい、とそう思った。 それなのに、彼は来てしまった。 タツヤは血相を変えて病室に飛び込んできて、全身を負傷した私の姿にいたましげな眼をして、謝罪の言葉を口にした。彼はこの三ヶ月もの間、ウサギを殺したという罪を律儀に抱え、私が植え付けた罪悪感に苦しみ続けていたというのだ。 そしてあろうことか、よりを戻したいとさえ口にしてくれた。 その言葉がどれほど嬉しかったことか。この三ヶ月、私の心はとても弱っていた。ずっと張り詰めていた心にぽとんと落とされた温かな一滴――それが波紋を広げて私の胸中をかき乱す。 やめて、それ以上言わないで。 私はあなたを巻き込みたくない。 息苦しさに耐えながら彼の気持ちを拒絶した。だけどもう来ないでとは言えなかった。私は自分で思っている以上に彼の訪問に心を救われてしまっていたのだ。 次に彼に同じ事を言われて拒める自信はない。かといって、面会を謝絶するほど私の決意は強くなかった……。 一週間後、再びタツヤは訪れた。その表情と手にした花束を見て、彼がここへ来た目的を察した。 ――いけない、このままでは私は彼にすがってしまうかもしれない。全てを赦してその胸に身を預けてしまうかもしれない…… タツヤが二の句を告げる前に、私は咄嗟に全てを遮断した。彼の前回の訪問をなかったことにしたのだ。 私の記憶喪失は精神的なものだと医者は結論づけていた。それならちょっと強引かもしれないが、彼のことだけ記憶がリセットされるというのもありえないことではないはずだ。私の精神は元々、「彼によってウサギを失い深く傷ついている」状態にあるのだから。 タツヤに関する記憶は一日ごとにリセットされる。彼の謝罪も告白も、私の心に蓄積されることなく消えていく。私は永遠に彼を赦すことなく、彼に縋り頼ることもない。呪いも彼には届かないはずだ。 タツヤは私への見舞いをやめなかった。何度でもやってきて、私の好きな白百合の花束を持って、同じ台詞を口にする。 ウサギを殺して、ごめん。 君の気持ちを考えないで、僕もひどい態度をとった。赦してくれとは言わないが、僕が今でも君を愛していることを、どうか覚えていてくれないか。 呆れるほどまっすぐで、飾り気ない言葉。その全てを私は拒む。拒むたび、心臓が焼けつくように痛む……だけど同時に、一時だけの甘美な悦びを得られた。孤独によって飢え渇いた心が癒やされる。病院にいる間だけでいい、その声を、その顔を、私は感じていたかった。 今日も彼はやってくる。これで五回目の訪問になる。扉が開き彼が顔を覗かせるだけで私の心は複雑に揺れる。喜びと、苦しさで。 タツヤとは実に三ヶ月ぶりに出会う――最悪の別れ以来だ――だから、ちょっと戸惑い気味の微笑をつくることを忘れない。 「ひさしぶり」 ほんの数分後、彼は再び私に謝罪するだろう。そして、自分の気持ちを告白してくれる。それを私は緩く突き放す。死したウサギの幻影を抱いて彼を縛り続ける。おぞましい呪いから逃げながらも彼の鎖を手放さない私は、彼が思うようないい女じゃない。……
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