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   *  恒例となった、月曜ハンドボール体育の後の夜ご飯は、今日はひかる宅で行われた。 「お邪魔します」 「いえいえ」  授業が始まる前、体育館に向かう途中で声をかけられ、一緒に歩きながら「あのさー」とひかるが口を開いたときは少し緊張した。手紙で色々素直に伝えすぎたかと、どんな顔を合わせればよいかと考えていたので。  結局、「今日のご飯、うちでいい? カレー作り過ぎちゃったんだよね」と屈託ない照れ笑いを向けられて、力が抜けるとともに「実在する誘い方なんだね」と笑ってしまったのだけど。  靴を揃えてから廊下を進み、部屋に荷物を置いてから洗面所で手を洗う。 「もうだいぶうちにも慣れたねえ」 「そうだね」 「カレーあっためるから座って待ってて。ちょっとかかるかも」 「はぁい」  カレーを食べ終えて、呼んでもらってるからと食器洗いを済ませたみつるは手を拭きながら「そういえばね」と口を開いた。 「やってみたいことリストをスマホのメモ帳で作り始めたんだよね」 「え、そんなことしてたの?」 「うん。あのねー、結構出てきた」  ひかるの隣に座って、ソファの背もたれに身体を預けながらそのメモ帳を開く。まだスクロールしても半分しか下に伸びない程度のリストだ。 「え、どんなのが挙がってるか見てもいい?」 「いいよー。あ、あのね、簡単に達成できそうなのもあって、本当にメモになってきたんだけど」 「全然いいと思う」  みつるは上体を起こし、ハイ、とスマホをテーブルに置いてひかるとの間あたりに滑らせた。 「え、確かに結構出てきてるね」  ・短期留学したい  ・なんかサークル入る? 何かしら所属するコミュニティが欲しい  ・本屋さんでバイトしてみたい それかなんか文章書くようなやつ  ・海外旅行したい ヨーロッパとか行きたい  ・免許取りたい  ・ちゃんと文章書く何かをしたい  ・一人暮らししたい  ・一人旅したい  ・47都道府県制覇したい  ・写真撮りにどっか散歩か旅行行きたい  ・ひかると大学以外のところに出かけたい 「ああ〜、私も短期留学とかはしたいなあ」 「海外旅行行きたいって言ってたもんね。海外旅行は私も別に挙げたけど」 「そうそう。留学、なんか大学にじゃなくて語学学校への留学だと大学生に限らず色んな立場の人がいるらしくってさ、それも楽しそうだなって思うんだよね」 「あー、ひかる楽しみそうだね」 「でしょー。あ、免許持ってないんだ?」 「そうなの。持ってる?」 「ううん、取りたいんだけど。みつるはめっちゃ安全運転しそうだよね」 「よく言われるなあ。でもひかるも上手そうだよね」 「それもよく言われるなあ」  上手そうって言われるか運転荒らそうって言われるかのどっちかだわ、とひかるがぼやくので、みつるはそれも分かると笑った。分からないでよ、と拗ねながらひかるはまたスマホに視線を落とす。 「一人暮らし、いいねえ。私なんか始めるときは全然信頼されてなくてさー、絶対生活できないでしょって散々言われたけど、みつるはちゃんとしてそうだよね」 「うーん、どうかな」 「あれ、ていうかさ、すごい可能性だけの話だけど、もしみつるが一人暮らししたら、文学誌バイトの件もオールオッケーじゃない?」 「ああ、そう、それはね、思ったんだよね……」 「親御さん、絶対一人暮らしさせない! っていうタイプ?」 「うーん、どうだろ……でも相談してみようって思ってる。でもそうじゃなくてもあのバイトは応募する気がしてきたかもなあ」 「えっ、そうなんだ」 「うん。なんかね、これで動かなかったら後悔するんだろうなっていう気がすごいするから……もしダメだったとしても次に何か始められるだろうし」 「へえー」  スマホを見つめながら話していたみつるは、その「へえー」が笑い混じりの声色だったので顔を上げ、またやたらと微笑ましく見つめられていることに気付き、思わず「顔が優しすぎる!」とひかるの肩を押した。 「どんな文句よ」 「いや、甘いっていうか、こう、子供を見つめる親の慈愛みたいな目してるから……」 「いやちょっとね、愛おしい、みたいな気持ちになるんだよねみつるを見てると」 「いと、……」  何も否定することもできず、みつるは黙ってスマホのリストに視線を戻す。  一番下までスクロールすると、実行済みの項目がグレーアウトで表示されている。 「あっ」 「あー!」  二人が同時に声を上げたのは、そのグレーアウトした唯一の内容が「ひかると大学以外のところに出かけたい」だったからだ。みつるは慌ててスマホを取り上げるが、ばっちり見られていて時既に遅しもいいところだ。 「えー、これは愛おしくても仕方ないでしょ」  先ほどの笑顔をさらに甘くしたような笑顔を向けられて、みつるは自分の行いを悔いながら両手で顔を覆い、ソファにもたれる。 「しまった……」  心から悔いている様子のみつるがおかしくてひかるは声を上げて笑う。ますます恥ずかしくて顔を隠したままのみつるの耳にシャッター音が聞こえて、「ん?!」と上体を起こす。ひかるは自分のスマホの画面を見ながら「かわい〜」とニコニコしていて、その画面を覗き込めば手のひらで顔を覆っている自分の姿があった。 「ちょっと」 「かわいくない?」 「かわいくない!」 「いやかわいいんですよ」  あまりに機嫌が良さそうなので、みつるはムキになるだけ損する、と諦めてもう一度ソファの背もたれに体重を預けた。 「私もやってみたいことリスト作ろうかな」  みつるとやってみたいこともたくさんあるなー、と茶化してくる言葉が素直に嬉しい気持ちが、みつるは少し悔しかった。    *  週中、みつるが一人暮らしをしたい旨を両親がいる場で申告してみれば、両親とも頷いて「まあそうだよね」とあっさり理解された。  父親が口を開く。 「今すぐしたい感じ?」 「え、いや、今すぐというほどでは」  母親が今普通に通ってるものねえ、と頷き、言葉を続ける。 「二月後半とかになると合格した新入生が物件決めるだろうからさ、その前とかでいいんじゃない? 春休み入ってすぐとかでどう? 仕送りのこととかはそれまでに確認しておくからさ」 「わかった、けど……そんな、いいの?」  あっさりと認められたみつるがそう聞けば、両親は顔を見合わせて「まあいいよね?」と頷いている。母親がみつるに向き直り、「二人とも神奈川から都内に通ってたから、大変さは分かるからね」と言う。 「それに、あなた土日も未だに高校に行っててさ、まあいいことだと思うけど。でも、大学側でやりたいことできるといいなって、お父さんと話してたから」 「そ――、そうだったの」  そこまで察されていたことに決まりが悪いが、背中を押してもらえることはとてもありがたい。みつるは一度深く息を吸ってから「ありがとう」と伝えた。両親は笑顔で頷く。 「あ、でも初期費用の援助もいくらまでって上限設けるつもりだから、バイトは今のうちに頑張った方がいいかもね」 「う……頑張る」  塾講師の冬季講習がっつり頑張るか、と内心で決意し、それから本当に一人暮らしが実現できそうであることの喜びを噛み締めた。もし文学誌のバイトがダメだったとしても、チャレンジできることはきっと広がるはずだ。頑張る、ともう一度呟く。それからひかるの顔が頭に浮かんで、すぐに伝えたくてLINEを開いた。 《一人暮らし、親に話してみたらOKもらえた! 二月くらいから大学らへんに住むかも!》 《文学誌のバイトも本当に申し込むことにする!》  ひかるからは祝福するようなスタンプと、〈ご近所さんになれるかな!〉という旨の返信が来た。    *  翌木曜日。 「今日さ、授業終わったら成田先生のところにバイトの件で話しかけに行くから、もし忘れそうだったら言って」 「おお、おっけー。直接言いに行くんだ?」 「うん。なんかメールでもいいのかもしれないけど、念のためメールでもいいですかねって聞こうと思って」 「確かに、ないと思うけど見逃されたりしたら怖いもんね。そっかー。でも一人暮らしも春休みになったらできるんだもんね。楽しみだね」 「うん、よかった。もし今回のバイトが難しくても、大学の近くに来ればできることも増えるだろうし……ただ、それまではひかるに結構お世話になっちゃうかも」 「みつるが来るの、嬉しいよ。ていうか用事がなくてもただ泊まるとかしようよ」 「それはやりたいなあ。ひかるの本棚にある漫画とか本とか読むだけのお泊まりしたい。私もなんか好きなやつ持ってくるからさあ」 「あー、絶対楽しいね」 「ね」 「でも大学近くに住んだら漫画の貸し借りなんてめちゃくちゃ簡単だよね? 何でもみつるとできちゃうなー、楽しみ」  バイトは関係なくそれは確定じゃない? とはにかむひかるが本当に楽しそうで、そうだね、と頷いたみつるは、自分が今、ひかるがたまに見せる笑顔と同じような顔をしているかもしれない、と思った。 「――というあたりで、今日はもう時間かな。じゃあ、出席カード出して終わってください。何か質問あれば僕まで」  学生たちが立ち上がったり何かをしまったり、一斉に物音でガヤガヤする。 「じゃあ、先生のところ行ってくる。出席カード、出してくるよ」 「ありがとー」  ひかるの分との二枚を持って、数メートル先の教卓へ向かう。  ――アルバイトの件なんですが、応募したいと思ってまして、先日の案内に書いてあったアドレスにメールを送ればよいですか?  脳内で質問を準備して、今日もまた荷物をカバンにしまっている先生に声をかけた。 「先生、すみません」 「はいはい」  先週と同じように顔を上げて、顔を覚えていてくれたのか、ああ、と声を出して「アルバイトのことで先週聞いてくれたっけ?」と先生は尋ねた。 「あ、ハイ。えーと、応募したいなと思っているんですが……、応募方法とかって、案内に記載されてたアドレスにメールを送る形で大丈夫ですか?」 「おー、よかった。うん。それでお願いします」  にっこりと微笑まれて、ふっと肩の力が抜ける。 「多分ね、採用になると思うけど、一応面接というか……お互いの都合的に問題ないかっていう面談の場は設けてるので、返信でその案内が来ると思います。もし来週までに返信がなかったらまた授業のときに声かけてもらえるとありがたいです」 「分かりました。ありがとうございます」  採用になると思うけど、のところがあまりに軽かったので、返事をしておいて少し不安になった。表情に出ていたのか、先生がもう一度口を開く。 「一、二年生中心に募集かけてるタイミングだとね、経験とか聞いても仕方ないから、やりたいって声を上げてくれた順でそのまま採用することが多いんだ。だから本当に、面談で条件とかに問題がなければ大丈夫だと思いますよ」 「あ、そうなんですね。じゃあ本当に、今週ちゃんと聞いてみてよかったです」 「そうだね。僕も応募してくれる学生がいてよかったです」  そのタイミングで先生はショルダーバッグを肩にかけ、「じゃあ」と会話を切り上げる。 「メールはお願いします。よろしくね」 「はい!」  ぺこ、と頭を下げて、みつるはひかるのもとへ戻った。 「どうだった?」 「メールでいいって。あと、結構応募順でそのまま採用してるらしくて、多分採用だと思うよって言われた……」 「え! よかったねえ。すごい一気に決まったんじゃない?」 「本当にそうだ……」  入学してから半年以上経って、ようやく前に進み始めた気がする。  安心と嬉しさがじわじわと全身に広がり、自分の表情が緩んでいくのが分かる。 「ひかるのおかげだ」  みつるはひかるのことをじっと見つめてそう告げた。  また「愛おしい」の表情でみつるを見ていたひかるは、みつるの言葉をまともに受け止めて破顔し、俯いて顔を隠す。そして俯いたまま「そんなことはないけど」と口を開いた。 「百パーセントみつるが自分で動いたことだけど、でもそんな風に言ってくれるのは嬉しいから、ありがとう」 「……感謝したのに感謝されちゃった」  みつるがそうこぼすと、ひかるは少し落ち着いたのか顔を上げたが、頬はまだ紅潮している。ひかるがそんな風になるのは珍しい、とみつるは新しい一面に感心し、まだ出会って二ヶ月かそこらなんだから当たり前か、と思い直した。きっとまだまだ知らない側面は当たり前に出てくるのだろう。  いい関係性だ、と唐突にひかるが呟く。 「……私たちが?」 「そう。どっちかが無意識に背中押したりしてて、背中押された方は感謝するし、それを伝えると背中押してた方は嬉しくなるし自信が持てたりするっていうスパイラル」  スパイラル、のところでひかるは人差し指を立てて、螺旋を描くように指先をくるくる動かした。  確かにそうだ、というみつるの呟きに「でしょ」と照れ笑ったひかるはだいぶいつもの調子を取り戻していて、「ちょっと恥ずかしいこと言っちゃったー」と、でも機嫌よさそうに机に置いていたリュックを背負った。みつるも自分のリュックを背負い、通路に出る。 「今日はそのままサークル?」 「そう〜」 「そっか。私はまた学食行こっかな。忘れそうだからメール送らなきゃ」 「あ、そうじゃんね。学食はまたカレー?」 「えー、今日は唐揚げにしようかな」 「いいねー」  他愛ない会話をしてひかると別れ、一人学食に向かって唐揚げと白米と小鉢を注文し、カウンター席に着く。  まずはご飯、と唐揚げを頬張りながら、本当に生活が変わるんだ、と何度目かの実感の波に襲われる。先生と話したあとの波が第一波だったとしたら、これは第二波か、第一波の途中かとしょうもないことを考える。第何波まであるんだろう。波が落ち着いて当たり前になるのはいつ頃だろうか。  一人暮らしも始める予定だし、三月くらいにやっと落ち着くのかもしれない。でもその頃にはもう一年生が終わってしまう。大学生活の四分の一が終わってしまうのだ。  大学は高校よりずっと早く終わるよ、というのは散々聞くけれど、本当にそうなのだろう。  やってみたいことリストの項目はまだまだ残っているし、これからも増えていくに違いない。  動けてよかった、とみつるは思った。  いつまで経っても動けないのかもしれないと思っていた。  そうじゃないと分かったことが嬉しかった。    *  バイト先になる編集部にメールを送ったところ、翌日金曜日にはメールが返ってきた。先生の言っていた通り、面談でお互いに条件を確認して問題なければ採用になります、と記載されていた。  面談は翌週の火曜日に決まり、その場でシフト候補日を決めた。塾講師のアルバイトの方で事前にコマを減らせないかという相談はしていたものの、中学生の高校受験が落ち着く一月までは調整が難しいとのことで、文学誌バイトの方は土日の両方とギリギリ空いている平日の一箇所で入れることになった。  ――結果、初めの二週間を何とか乗り越えたところで、みつるは結構、疲弊していた。  月曜日のハンドボールの授業が始まる前、いつものサークル棟のソファでイヤホンをつけ、リュックを膝の上に抱え、アラームをセットして、リュックに顔を埋めながら目を瞑って過ごす。寝入るまでは行かずともうとうとしていたところをやがてバイブレーションに起こされて、リュックから顔を少しだけ上げる。寝跡がついてないよなと顔をぺたぺたと触り、顔を正面に向けたとき、「あ、みつる起きた」とすぐ隣から声がした。みつるは驚きで身体を跳ねさせ、「えっなんでひかる?」と声の主の方を向く。  そこには眉を下げて笑うひかるがいて、とりあえず行こうよ、と立ち上がる。みつるもそれに倣って立ち上がり、体育館へ向かう。そこでひかるに言おうと思ってたことを思い出し、横を見上げて口を開く。 「あのさ……、ごめんなんだけど、今日はご飯なしでまっすぐ帰っていい?」  ひかるが前を向いたまま眉を顰めたのが分かって、みつるは「約束してたのにごめん」と小さく呟いた。その呟きを拾って慌ててみつるの方を向いたひかるは、「いやごめんっ、そうじゃなくて」とみつるの腕を掴む。時計を見てまだ少し余裕があることに気付き、体育館の使用されていない入り口の階段に腰掛ける。 「……疲れてるのが心配なだけ」  そう言って眉間に皺を寄せたひかるの顔は確かに心配している顔で、さっきの横顔も心配だったのか、と肩の力が抜けるとともに、心配させていることを申し訳なく思う。 「心配かけてごめんね」 「謝らなくていいよ! ただ私が心配で、……うーん、ねえ、あのさ、疲れてるのはあんまり寝れてないから?」 「まあ、それもあるかな。毎日移動してるから……」 「じゃあさ、今日は――というか、月曜日から火曜日はうちに泊まりなよ。みつる、布団とか枕が変わるとよく寝れない?」 「え? いや、割と寝れる方だと思うけど……いいの?」 「いいのっ。あー、うーん、じゃあ、家事を前よりみつるに手伝ってほしいってお願いするかも。みつるは一人暮らしの練習にもなるし、いいでしょ?」  それは、ありがたいけれど。 「……私が一方的に得してる感じがするんだけど、本当にいいの?」 「私はみつると一緒にいられたら嬉しいし、みつるのこと心配せずに済むのも嬉しい」  柔らかく緩んだひかるの笑顔をまともに受け止めてしまい、みつるは思わず顔を背けた。心を整えてもう一度ひかるの目を見て、「……ありがとう」と伝える。 「どういたしまして」  ――あ、また「愛おしい」の目だ。  視線から自分を外すようにみつるは立ち上がり、「ハンドやろう!」と体育館の方へ身体を向けた。  結局この日当日から月曜日の夜ご飯会はそのままお泊まりに変わり、ひかるの家にはみつるの物が少しずつ増えていくことになった。

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