終われなかった青い春を抱いて
大学生活、楽しいですか?

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 ハンドボールシューズの、先ほど自分で解いた靴紐を踏んで少しこけた。斜め後ろから「大丈夫ですか」と笑いを含んだ声をかけられる。立ち止まった分でその声の持ち主と横並びになったみつるは「大丈夫だよ」と少し拗ねた声で答え、どうせすぐ脱ぐからいいかと解けた靴紐をそのままに歩き出す。 「先輩、大学って前期終わったんですよね? 大学生活、楽しいですか?」  OGとして参加している高校のハンドボール部の練習が終わり、グラウンドから引き上げて手指の松ヤニを落とすために流し場に向かっている。声をかけてきたのは二つ下の後輩である紗里だった。 「うーん、楽しいよ。まあ、興味あること勉強したいって文学部に進んだし、講義は楽しかったな。レポートも無事済んだし……でも、」 「ああ、先輩、本読むの好きでしたもんね。英語とか国語も学年一位でしたっけ」 「……あれ、なんで学年一位だったの知ってるの? いや、みんなが受験勉強始める前の二年生の春頃とかに一回学内模試で取れたってだけだよ。まあ、語学の勉強も本読むのも確かに好きだけどね」 「先生から聞きましたよ。あと一個上の先輩とか」 「……なるほど」  それはそうか、と苦笑いで頷く。今年五十五歳くらいになる、初老と言うには元気すぎる先生はとにかく話すのが好きなのだ。  部室の前まで辿り着いて、独特のにおいがする松ヤニクリーナーを指で掬って取る。指にこびりついていた松ヤニを、クリーナーで溶かしながらこそぎ落とすように指先を擦り合わせる。そのまま水道で流して、部室に向かうところで「みつる先輩、」ともう一度紗里に声をかけられた。 「そういえばさっき、なんか言いかけてませんでした? 講義は楽しいけど、でも、みたいな」 「え? ――あ、ああ……」  いや……。これも情けないんだけどなあ、とみつるは躊躇うが、首を傾げて回答を待つ後輩に向かっておずおずと口を開く。 「講義以外の時間を持て余していて、部活ないの未だに慣れない、っていう……」  みつるが零した本音に、紗里は「え、もう半年経つのにですか?」と遠慮ない反応を寄越す。  現役時代は別のポジションだったからあまり関わりがなかったが、本人の話しやすい性格と、引退した後も学校内の移動教室ですれ違うことが多く、何だかんだ部活に顔を出したときは一番話す後輩だった。 「もう半年経つのにですー」  講義終わったし夏休みバイトする以外あんまり予定ない、と嘆いてみせると、「大学生ってめちゃくちゃ遊ぶイメージなんですけど。姉とかそうですよ」と紗里は傾げていた首を反対側に倒した。確かに妹っぽい。 「えーでも、だからこんなに部活来てくれるんですか?」 「嬉しくない?」 「嬉しいですけど、先輩が大学生活も楽しんでたらもっと嬉しいですよ」  にこやかにそう言った紗里に「いい後輩だなあ」とにこやかに返したが、紗里はすぐにスンと真顔になった。 「だって消去法とか妥協みたいに来てほしくないですもん」 「おっ……、言うね〜……」  図星で言葉に詰まり、「別に妥協ってほどじゃないけどさあ」と、その側面があることを否定できないまま返す。紗里は「それも分かってますけど」と拗ねてみせる。全く甘え上手な後輩で、それでも「それなら大学でも続ければよかったのに」とまでは言わないあたり、機微の分かる後輩なのだ。  やがて部室に着いたところで「そういえば、」とみつるから話そうと思っていた話題を思い出す。 「大学にも体育あってさ、ハンドボールもあったんだよね。後期はそれ取ろうと思ってるから、それは楽しみかも」 「え、マイナースポーツなのに……。大丈夫ですか? グラウンドでやって、またコート作らないといけないとかないですか?」 「いやいや、ちゃんと体育館だし、ハンドボールの線もあるから」  高校の体育館の床にはハンドボールのコートを示す線が存在せず、メジャーで測りながらテープを貼る作業があった。コートに白線を引くのはグラウンドでも同様で、大抵一年生が進める作業である。 「へえー。なんか知ってる高校の人とかいたら面白いですね。先輩相変わらず髪短いから、高校時代と全然変わらないですし」 「いや、一度切ると伸ばそうっていう気にならないから……。まあでもね、緊張するけど、知ってる人いたらいいなあ」    *  塾講師のバイトで夏期講習のシフトに明け暮れ、二週に一度以上のペースで部活に訪れた夏休みを終え、みつるは予定通りハンドボールの授業を選択していた。  授業は月曜日で、六限という遅い時間だった。十八時十五分から十九時四十五分である。  五限が空きで、サークル棟のロビーで別の授業で扱われた本を読みながら時間を潰す。  サークル棟にはコンビニが入っていて、ベンチやソファなど座る場所もあちらこちらにあるので時間を潰すのに向いている。コンビニ前のベンチはサークルの溜まり場になっているので、結局どのサークルにも入っていないみつるにとっては所在なさを感じる場所でもあったが、ロビーの開けた空間には一人がけソファが並んでいて、みつるにとっては静か過ぎずにちょうどよく、前期から定期的に使用している場所だった。  手にしている本に目を通しながらも、これから授業でハンドボールをやるのだとそわそわする。慣れ親しんだ母校のメンバーではない。実力がどんな人たちが集まっているのか分からないし、そもそも女子はちゃんと人数集まるんだろうか。  本を一度閉じて、忘れ物してないよな、とリュックの中から体育館用のハンドボールシューズを引っ張り出す。部活の練習は大半がグラウンドで行われていたため、外用のシューズは消耗して何度か買い替えたものの、体育館用はギリギリ買い替えずに済んでしまった。剥がれそうで剥がれないソールの継ぎ目をなぞりながら、体育でハンドボールってどんな感じなんだろう、とぼんやり思う。  みつるがハンドボールを大学でやろうとしたのは、実はこれが三度目だった。一度目は、体育会。顧問の先生は中堅校を育てて関東まで連れて行っただけのことはあり、関東では少し有名で、その先生に大学の監督から連絡がきたらしいのだ。春休みのうちに体育会の練習に参加するか誘われて、迷った挙句、結局みつるは行かないことにしたのだった。行ったら続けたくなるのが分かっていたからだ。  二度目はハンドボールサークルである。ただしメインの練習場所が別キャンパスとのことで、早々に断念した。横浜の実家から都内の大学に通っているみつるは自分のキャンパスまでの通学時間が一時間半ほどあり、練習場所の別キャンパスはそこからさらに四十分ほどかかる距離だった。別大学の学生も受け入れているため、特に女子はその練習場所周辺の高校出身のメンバーが多いと知ったのも断念した一因だった。  だから三度目である。十五週で終わる、チームを組むわけでもない体育の授業を、体育会やサークルに並べでよいものかはわからないけれど。  とりあえず楽しかったらいいなあ、とみつるは思った。それから、この半年が終わればハンドボールをやりたい気持ちも少しは落ち着いているのかな、と。  サークル棟にはあちこちの掲示板にサークルの公演やイベントのチラシ、ポスターが貼ってある。今みつるの目の前には、大学公認のスポーツ新聞サークルによる写真が大きく飾られていた。  羨ましい、と思った気持ちをみつるは飲み込もうとしたけれど、迫力ある写真を撮った新聞サークルの人に対する羨ましさと、体育会で活躍する人に対する羨ましさがない混ぜになって、結局溜め息が出る。  何か頑張ることが決まっている生活は、ある意味楽なのかもしれない。充実していた高校生活を回顧してそう思う。部活と、時々勉強。空いた時間で本や漫画を読んだり、動画を見てダラダラする。部活まみれだったからそもそも時間がたっぷりあるわけでもなく、できることの選択肢も多くなかった。高校時代は選択肢が少ない状態で、持っているものに打ち込めばよかった。大学生になって、部活の分の穴はぽっかりと空いたまま、微妙に埋まりきらない。  つまり、やろうと思えば何でもできる大学生活で、やりたいことが見つからない。  陳腐でありきたりで、でも切実なみつるの悩みだった。  五限の終わる頃に体育館に向かうと、まだ女子は誰も来ていないようだった。今日からで合ってるよね、と不安に思いつつも着替えて更衣室から出てくると、ジャージ姿の女子が一人だけいた。更衣室には来なかったはずだけど、ホイッスルを首から下げているのが遠目に見えるから、体育会の人がTAとして授業に駆り出されているんだろうか。こちらに気付いたその人は、軽く会釈した後、何かに気付いたように首を傾げた。やがてみつるが近くまで辿り着き、大学名が入っているジャージで体育会の人だと確信できたところでその人が口を開く。 「……あの、もしかして、神奈川のどっかの高校でした?」 「え、はい、静川で……あ、さつきが丘の? えっと、エースですかね……?」 「あー、やっぱり! ディフェンスでトップやってましたよね?」 「そうですそうです」  名前言ってもらえたら思い出せるかも、そっちの監督めっちゃ叫ぶ人だったし、と言われて思わず吹き出し、「みつるです」と申告すれば、「あ〜! みつるー、って声何となく思い出せるわ」と向こうも笑う。 「あの、こちらからも名前聞いてもいいですか。あれ、顔覚えてるってことは同い年ですか?」 「あ、同い年です。一年生。名前は吉井友美って言うんですけど、コートネームはトモでした。ゆみの『ゆ』が、友達の友なので」 「ああ……! うちのチームでもトモさんって言われてましたよ」  さつきが丘の対策するときに話してました、とみつるが笑うと、友美は「えー! はずっ」と顔を手で隠した。その指を見て、慌てて「あっ、指巻かなきゃ」と気付く。「ボールケースの近くに置いてありますよ」と教えてもらい、そこに向かった。  みつるがテーピングと滑り止めである両面テープを巻き終わった頃、ちょうど授業開始の集合がかかった。  どうやら授業は試合中心で進むそうで、九十分間のうち、初めの十五分をアップやシュート練習にあて、男子は二十分、女子は十五分の試合を残りで二本ずつ行う予定とのことだ。授業は男女混合で、男子の方が圧倒的に多いので試合途中で交代することも加味して長めに取るらしい。  女子で授業に参加しているのは十人ほどで、男子は二十人ほど。ハンドボールはキーパーを含めて七人だから、女子の試合にはキーパーとあともう一人ポジションが足りていないところに男子が助っ人で参加することになる。  女子で集まり、ポジションの確認をした。  ハンドボールはキーパーを除いたコートプレイヤーが六人で構成されており、シュートはゴールから六メートルのかまぼこ型のラインの外側から打つことになっている。ちなみにジャンプシュートの後にライン内に着地するのは問題ない。  ディフェンスは基本的にマンツーマンではなくゾーンディフェンスで、六メートルライン上に並ぶことになる(一人や二人が少し前に出る形もある)。  攻撃のポジションは、まず大抵の場合は一人がポストプレイヤーとして、六メートルライン沿いに並ぶディフェンスのどこかの隙間にいる。バスケットボールで言うセンター的な役割である。  ディフェンスの外側に攻撃メンバーはあと五人いることになり、半円を描くように大体等間隔に並んでいる。フローターとも呼ばれる三人がロングシュートや一対一のカットインを狙うポジションで、真ん中の一人はそのままセンターと呼ばれる。左右の二人は四十五度の位置になるため「よんごー」と呼ばれたり、あるいは得点を狙うポジションとして「エース」と呼ばれたりする。  残りの二人はサイドに位置して、主にディフェンスが真ん中に寄ったときにサイドからシュートを決めたり、ディフェンスから攻撃に切り替わるタイミングでいち早く走り出して速攻を狙ったりする(ハンドボールにはオフサイドがない)。  みつるは攻撃のときは左サイドで、シュートの打ち方が変わるものの、やることは同じなので右サイドでも何とかこなせる。ディフェンスは高校では五人が並び、一人だけ前に出る形を取っており、その前に出るトップを担っていた。  サイドがポジションだった人は四人いて、ただポストが一人もいないとのことなので何とかポストもできるという二人がポストに入ることになった。男子の助っ人がサイドに一名ずつ入ることになる。他の六人がちょうどフローターだったため、入れ替わりで回すことになった。  とりあえず今日はチーム替えをせず、二試合とも同じメンバーでやることにした。  試合が始まると、不慣れなチーム構成ではなかなかパス展開が回らず、サイドシュートを決める機会は一本だけだった。とりあえず立っている感じの男子のキーパーにその一本を決めて、あとは速攻でパスが通ったのが三本。二本目はラインを踏んで笛を鳴らされた。苦笑いで自陣に帰るとチームメイトの人に「めっちゃ走りますね〜」とハイタッチを求められる。緩いハンドボールで新鮮に思った。  一試合目と二試合目の間、ちょうど隣のポジションだった人が同じ神奈川出身の三年生で、少し話をした。 「静川出身の一年生なの? あれ、静川ってなんか最近一気に強くなったよね」 「あ、そうですね。一個上が初めてベスト8で冬の県選抜に出て、私たちの代で関東出ました」 「うわ……そりゃ動けるわけだ……。あれ、でも体育会は入らなかったんだね?」 「あー、うーん、そうですね……。部活続けるなら、部活一本に絞って頑張らなきゃ多分、気が済まないので……」 「ああ、静川とかいたならそうなのかもねえ」  まあまだ一年生なら何でもできるよ、と笑ってみせたその言葉は頼もしくて、そうですよね、と頷きながら、でも何でもできるのも難しくないですか、という疑問は内心に留めた。  二試合目、みつるは速攻で得点を決め、パスカットも何本か成功した。やがて男子の三試合目も終わり、授業終了で集合がかかる。ありがとうございました〜、とあっさり終えて、みつるは更衣室に向かうことにする。 「みつるちゃん」  不意に声をかけられて振り返ると、審判をしていた友美が笑顔で立っていた。友美はやはり体育会に所属していて、TAを務めると先生に紹介されていた。みつるを見つめるその顔にはどこか圧を感じる笑みが浮かんでいて、少し嫌な予感がする。 「あのー、何言おうとしてるか、分かるかもしんないけど……」 「ハイ……」 「分かってそうで嫌そうだな〜。いや、多分合ってるけどね、全然動けてたなって思って。体育会って、今からでも全然歓迎なんだけど、興味ない?」  控えめな笑顔だけど、言葉の圧はやっぱりそこそこ強い。 「正直、同期に人数もっと欲しいんだよね……。上の代は十人弱いるんだけど、一年生、四人しかいなくて。またハンドやりたい気持ち、ない?」  またハンドやりたい気持ち、ない?  その言葉にすぐ首を振れるほどではなくて言葉に詰まるみつるに、「どう?」と追い討ちをかける友美。す、と息を吸って、吐き出すように「いや、」と口を開く。 「体育会では続けないって、思ってるから……」  入ることは、しないかな、と答える声に「歯切れ悪いなあ。未練ありそうだと誘いたくなっちゃうよ」と友美が返す。素直な性格らしかった。  いやいや、と首を振り、「じゃあまた来週です」と会釈する。「はぁい」と返した友美はまだ納得してなさげで、それはそうだよな、と決まり悪さを覚えながら背中を向け、改めて更衣室の方へと歩きだした。

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