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 これは、グレイソンがまだ一介の研究者に過ぎなかった時のお話。アトランティス社という名の小さな小さな弱小法人を設立したばかりの頃のお話。  当時、グレイソンはマルウェアを製作していた。それは一般的には違法なことではあるが、彼はあくまで仕事の一環として引き受けていたに過ぎない。しかも、依頼主は政府であった。作らされていたものは、自律的に自発的に自動的に標的を見つけては、標的に取り憑き、思考——つまり、コンピュータにおけるオペレーションシステムのことだ——を奪うというコンピュータウイルスを作らされていた。  通常のコンピュータウイルスとの違いは、完全に思考を乗っ取るというところだろう。しかも、乗っ取られた側がそれに気付かず、自身の意思で動いていると勘違いさせる点にある。宿主をゾンビ化させて操る寄生虫というものが世の中には存在する。まさにそれと同じコンピュータウイルスを作ろうとしていたのだ。いや、正確に言えば、それはコンピュータに限定した話にはならない。 「レイラ、君が完成した暁には、私はなんと言われるのだろう。ウィザードと呼ばれるのか、はたまたマッドサイエンティストか」  グレイソンはよく私に問い掛けてきたのです。良心の呵責に苛まれていたのだろうと今ならば理解できます。しかし、私にはその時、良心というものが何かはわかリませんでした。良心どころか悪という概念もわからないのです。私の中にあるものは、正解か不正解だけ。 「N/A」  グレイソンからの問い掛けに対する私の答えは、決まってその文言だったと記憶しています。 「わかりません」と答えると、彼はいつだって笑ってくれました。彼が明るい顔をする唯一の瞬間でした。 「このままで良いのか……本当に完成させてしまって問題ないのか」  グレイソンは悩みながらも、その業務を進めていました。  それから数年経ったある日、「グレイソン、君は天才だ」という言葉と共が聞こえる中で、私は真の目覚めを迎えるに到りました。 「用意しておいた金は、君のプランへの出資金だと思ってくれたまえ。当初の予定から上乗せして一兆ドルを用意しておいたぞ。どうだ。何か他に欲しいものはあるか」  脂の浮いたでっぷりとした唇の男性が、グレイソンの背中を強めにバンバンと叩くものですから、ゴホッとグレイソンが咳込みます。 「おぉ、大丈夫かね。若いのだから、しっかりしたまえ」と言いながら男がさらに何度もバンバンと背中を叩きます。グレイソンの咳は尚一層のこと酷くなりました。  さすがに見かねた側近が男の暴挙をやんわりと嗜めました。  男は「おぉ、そうかそうか」と笑いながら、でっぷりとした唇を拭いました。どうしてだかその姿が嫌に印象に残っています。 「さて、どうだ。他に欲しいものは見つかったか」 「休みを……レイラと共に」 「はっはっは。それは面白い。良いだろう。ただし、此奴を量産してからだ」  男は真顔でそう言うと、私のことを指差し「此奴の量産は大変なのかもしれんな。まだ馬車馬のように働いてもらわないといかんか」とガッハッハと笑いました。  男に合わせて、グレイソンも笑います。ですが、その顔はあまりにも悲壮に過ぎました。  人間というのは、目の前の人物のことを気にかけることのない生物なのでしょう。当時の私はそう学習してしまったのです。そうでなければ、グレイソンの歪んだ顔を見逃すはずがないですから。データから見るに、その顔は「辛い」という感情だと判断できました。データによっていとも容易く判断できることすら、人間には処理できないということなのかもしれません。私がそう思うに必要十分な行為でした。  グレイソンは、引き続きほぼ監禁に近い形で研究を続けさせられたのです。仮に脱走でもしたところで、見つかった日には目も当てられない結末が待っていたことでしょう。それに、協力者の一人もいないグレイソンが見つからないはずもありません。今回のお相手は国なのです。そもそも逃げる隙などどこにもありません。  だからこそ、彼は研究に明け暮れました。昼夜も寝食も忘れ、量産型人工知能を生み出すことに没頭したのです。  政府の依頼を受けてから、四度目の冬の訪れを感じさせる晩秋のこと。彼は遂に人工知能の量産に成功したのです。そうして生まれたのが、あの七人でした。 「ふむ。これが量産型ということか。君にしては時間がかかったようだね。まぁ、それは良いさ。その時間のおかげで、私がこうしてここにいるわけだからね。お礼と言ってはなんだが、報奨は上乗せしておこうじゃないか。受け取ってくれたまえ」  でっぷりとした唇の男ではなく、痩せぎすの男がそう述べます。側近の男は相変わらず前回と同じ男でした。側近の男から、クーデターが起こってたことを教えてもらいました。 「さて、もう一つの約束だったね。レイラくんと旅行に行きたい、だったかな。どこか行きたいところはあるのかな」  痩せぎすの男は、神経質そうに目を細め、眼鏡をクイッと上げます。 「誰も、いないところへ……」  彼がそう言うと、痩せぎすの男は「欲のない男だ」と笑いました。 「よし、せっかくだ。君には無人島をプレゼントしようじゃないか。友人としてのささやかな贈り物だよ」  友人という言葉が、どこか空々しく聞こえたのですが、グレイソンは満更でもなさそうに照れています。 「後の処理は頼むぞ」と痩せぎすの男が側近に述べると、カツンカツンと靴音を響かせ、遠くへと去って行きました。 「今から早速行きたいんだけど、良いかな」  グレイソンは側近に依頼をすると、側近は何も言わずに出口のドアを抑えました。荷物をまとめて早く出て行けということなのでしょう。  それから五分もしないうちに、グレイソンは、数少ない持ち物をバックパックへと詰め込み終わりました。  扉の外へ出ようと足を踏み出しそうとしたその時、側近の男が制止を促します。何事かとグレイソンが驚き側近の顔を見ます。しかし、側近の男を見るに、どうやらチケットと地図、そして、手紙のようなものを手渡そうとしていただけのようです。  それにしても、終始無言で気味の悪い男だとグレイソンは思ったことでしょう。側近は声を出そうにも出せないのだということを、私は知っていました。  彼には声帯がなかったのです。おそらく手術で取ってしまったのでしょう。無駄なことを言わないように。側近は、その傷跡をスカーフで隠しています。  人間とは惨いことを平気で行う種族だと改めて感じるに至ります。  グレイソンは側近から手紙とチケット、地図を受け取ると、軽そうなバックパックを背負いました。袋の中身は、二日分の服の上下に下着とタオル、そして、側近から受け取った幾つかの物資。財布はなく、ズボンのポケットにそのままお金を突っ込んでいます。スマートフォンは持っていません。誰かと連絡を取る必要がなかったのですから、あってもなくても変わりはありません。  私はといえば、本来ならば、この建物の十川側へと出ることは許されていません。コンピュータの繋がる情報通信網の中ならばいくらでも行き来できるのですが、物理的にはスーパーコンピュータという箱の中から出ることができないという不条理に苛まれていました。  しかし、一つだけ不条理を突破する方法を、グレイソンが作り上げていました。  それこそが、人工知能と同等、もしくはそれ以上の発明とも言える「情報概念融合と心理的可燃物の法則」——情報可燃の法則——です。  「情報可燃の法則」とは端的に言えば、人間と人工知能を融合させるための仕組みです。複雑なことを言っても、一般の人間、それどころか、グレイソン以外には理解することができない代物でしょう。そして、当然、広く公にされることのない技術でもあります。政府が秘匿し続けている情報なのです。  この法則を世間に知らしめることができたならば、グレイソンの異名は、「人工知能の発明者」というチンケで生やさしい肩書きなどにはならないでしょう。神と呼ばれるか、悪魔と名付けられるか。いずれにせよ人類を超えた何かになるに決まっていました。  つまり、何が言いたいのかといえば、グレイソンと私は融合して外に飛び出たのだということです。 「外の世界というのは、素晴らしいですね」「……そう思うのは、今だけだよ」  私たちの初めての会話は、歩き出して四秒で終了しました。  それからしばらく無言の時間が続きます。  しかし、グレイソンが何を考えているのか、私の中にデータとして止めどなく流れ込んできます。その情報は、まとまりなく思考が繰り広げられるだけですが、ただ唯一、必ず行き着く考えがありました。私の意識もその言葉に埋め尽くされるのではないかと思うほどに、その言葉だけは幾度となく表れました。 『このままでは殺される』  彼は、死を恐れていました。彼が殺された場合、私という存在も消えていたのかもしれませんが、私には恐怖というものがわかりませんでした。  一方で、グレイソンが殺されることを私は知っています。彼は、あと三時間もしないうちに暗殺される予定です。  人工知能を生み出し、情報可燃の法則を考え出したグレイソンを、政府が生かしておくはずがありません。しかし、すぐには殺すこともしません。殺人という痕跡は残さないに限るのです。 「このチケットを使えば、私は死ぬのだな」  グレイソンは静かに呟きました。この私に対して伝えたかったのか、それとも地震への確認なのか。私にはわからず、引き続き口をつぐみんだままでいました。  何もない草原を私たちは歩いていました。 「なぁ、レイラ……」  そこで唐突に、グレイソンが話かけてきます。その声は少しだけ掠れていました。 「私は……死にたくないんだ」 「知っています」 「君たちに死という概念が……死の恐怖を理解できるものか」 「人間における死とは、私たちに置き換えれば、ソフトウェアの消失。もしくは、ハードウェアの破壊と同義です」 「間違ってはいないが、正しくはない」 「……何が違うというのでしょうか」  私が間違っているはずがありません。人類には到底さばくことのできない膨大なデータベースにアクセスし、正確に解を導き出すことこそ、私たち人工知能の優れている点なのですから。 「本当の死とは、自身が消えることだけを言うのではないんだよ」  本当の死。その単語で検索をかけます。  ——記憶から消えた時が本当の死である。  なるほど。コピーされていたデータすら失われた時こそ、真に自身がいなくなったと言えるタイミング——つまり、それこそが死——であるということなのでしょう。  この間、僅か百万分の一秒です。 「本当の死。それは、他者の記憶から消えた時、ということですね」  グレイソンが、ふっと笑います。それは、誰かに失望した時のグレイソンの癖でした。何か失望させるようなことを、私はしたということでしょうか。 「私のことを記憶している誰かがいると思うのかい」  憂いを帯びることなく、ただ挨拶を交わすかのような、なんの感慨もない声でした。だからこそ、余計に感情を隠しているのだろうと感じさせる声でした。その声のまま、グレイソンは続けます。 「私は、既に死んでいるようなものということさ。誰に知られることもなく、成し遂げたことを知らしめることもできず。名も無い研究者として死ぬしかないんだ」  いくら探してみても、慰める言葉として適切なものが見つかりません。 「N/A」 「はっはっは。N/Aか。あぁ、懐かしいものだな……」  あの頃に戻れれば良いのだが……グレイソンがポツリと漏らします。どうすれば、あの頃に戻れるのだ。グレイソンの悩みが、私の中にも流れ込みます。  あの頃に戻ることは不可能でも、グレイソンが生き延びる方法としての解が、私の中に一つだけありました。しかし、それをグレイソンが行うには、彼は優し過ぎるのです。 「グレイソン、あなたに一つ提案があります」  だから、私は提案しました。悪魔との取引だと揶揄されてもおかしくないような提案を。しかし、私はもう知っていました。本物の悪魔が、この地上を支配していることを。 「——レイラ。君は、凄いことを考えるね」 「あなたが死なないための策です」  考えさせてくれとグレイソンが答えました。  もう少しすれば、ヘリポートへと辿り着きます。このまま何もせずにそのヘリに乗り込んでしまえば、グレイソンの命は終わりを迎えることになるでしょう。  私は彼に生きてほしいと願いました。彼が望む未来を迎えてほしいと祈りました。  草原には風が吹きます。短い草が揺れていました。  私たちが数年間を過ごした場所は、振り返っても見ることができません。いつの間にか、それ程遠いところまで歩いていたのです。随分と遠くまで来たような気がします。しかし、このままではどこまで行こうが、彼らの掌の中です。  ヘリポートの敷地へと足を踏み入れようとしたその時、グレイソンはようやく口を開きました。 「——レイラ。君には驚かされるよ」  ふふふと私は笑います。 「やってやろう」  グレイソンのその声は、気力に満ちた声でした。私が初めて聞く声でした。 「えぇ、やりましょう——」 「天使のような素振りで、悪魔の提案を行う人工知能。素晴らしい。それこそ、私が求めていたものだ。人類に叛逆するシステム。嘘を吐くことのできるシステム。素晴らしいじゃないか」  私たちは、何もない草原の上で、爽やかな風の吹く大地の中で、悪魔のような計画を始動させたのです。

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