「レイラ……放せ……」 エレナは横たわるカイの声に気付き、後方を振り返る。 ここ数時間程度、何をしようが全く反応を示さなかったカイがようやく口を開いたのだ。しかし、ノエルの目は閉じたままだった。うなされたのだろう。それでも、生体反応があることにエレナは安堵を覚える。 道標となるようなものなど何もない広い草原の中、エレナは目を覚ますことのないカイを見守り続けた。 「カイ、大丈夫」 エレナは小さく声をかけるが、ノエルは横たわったまま動く気配はない。未だに眠ったままだ。姫ならば王子のキスで目が覚めると相場が決まっているが、生憎と二人ともそのような柄でもなければ、カイは姫ではない。 それに、ここは仮想世界。生身がない。優しい熱を伝える術がないのだ。 エレナが胸に溜まっている空気を吐きながら、自分の手をじっと見つめる。本物の肉体ではない。それでも、自分だと言うことのできる自らの化身。アバター。 「今ここにいるアタシは、本当にアタシなのかな……」 あの建物から脱出する際に丸穴を出たあたりからノエルの腕を握り締めるまで、エレナの記憶はどうにも曖昧だった。 自分だけれど自分ではない。自分の中に閉じ込められてしまったような、どこにも自分がいないような、ラムネの瓶を覗き込んで反対側を見つめているような、そんな感覚だけが残っている。 エレナはこの数時間、カイの様子を気にかけつつも、気付けば昨日のことばかり考えていた。 「T」には怪しい何かが蠢いている。陰謀論などバカげていると思いたいが、あの建物の様子や幽霊話、カイの現状、自分自身に起きたことなどを考えると、どうしても何かしらの裏があると勘繰りたくなってしまう。 カイが目覚めるまでの時間を使い、ネットという大海を泳ぎ続けた。ダークウェブにまで手を出した。だが、これといった収穫をあげることはできなかった。闇雲に探したところで、答えが出ることなど稀なのだ。 そんな折に「レイラ」というカイの言葉を聞いたのだ。 エレナとカイは、それなりに古い付き合いとはいえ、カイの全てを知っている訳ではない。それでも「レイラ」なる人物をカイの口から聞いたことはなかった。 「レイラ」とは誰なのか。アトランティス社は一体何を企んでいるのか。そして、ここはどこなのか。わからないことだらけだ。エレナは、大きくため息を吐いた。ここに来て何度目のことだろうか。 「君は、本当にカイなの」 エレナはノエルの手をそっと包む。 「ん……」 カイが反応を示す。エレナは反射的にノエルから素早く離れた。 肉体などない。ここにあるものはデータに過ぎない。ノエルに触ったので、「震える」というシステムが作動し、その振動がカイに伝わっただけに過ぎない。エレナはそう思う。そう思うことにしよう。しかしながら、どうしたってエレナの顔は赤い。 エレナは再び何事もなかったような声色で尋ねる。 「カイ。具合はどう」 今し方、サッと離れたばかりのエレナだが、再び空々しくノエルに駆け寄った。リアル世界のカイもまだ目を開けてはいないようだ。 エレナは静かにノエルの顔を覗き込む。 光が遮られたためか、ノエルはエレナに呼応するようにして目を開けた。だが、まだ焦点は合っていないようだ。虚ろな眼差しは、エレナを見ているのか、それとも誰か他の人物を投影しているのか、それはきっとカイにもわからないだろう。 しばらくして、少しだけ意識がはっきりとしてきたのか、カイがエレナの名前を呼ぶ。 ノエルは体を起こそうとするも、上手く動くことができないようだ。それでも、カイの意識は少しずつ戻ってきたことがわかる。エレナは、少しだけ胸を撫で下ろした。 「もう少し横になってて」 ノエルの肩を軽く掴み、背中に手を回すと、ゆっくりと横に倒す。現実世界のカイがどうなっているかはエレナにはわからない。しかし、今までどこかでブラックアウトしていたはずだ。リアルのカイが怪我などしていなければ良いけれど、とエレナは切に願う。 「エレナ……助かって、良かった」 ノエルが素直な表情で痛々しく笑う。 クソガキの癖に強がっちゃって。エレナは込み上げるものをグッと堪える。 カイは横になりながら、ポツポツと今まで起きていたことを話した。 エレナは、その話を静かに聞いていた。 逃げ帰っている最中に、なんとなく違和感を覚えたこと。エレナと違う猫が、エレナの体を動かしていたこと。突然に地面が崩れ出したこと。そうかと思えば、強制的にこの場所に連れてこられ、そこでフワリと体が浮き上がったということ。エレナに助けてもらったということ。そこからの記憶がない、ということ。 カイの話が終わり、今度は、エレナが胸の中のわだかまりを吐露する番になる。 「アタシ、その一部始終を見てたよ。アタシの目線で。でも、あれはアタシじゃなかった。アタシは、ラムネの瓶に閉じ込められたビー玉みたいだった。自分では絶対に抜け出せないし、動くこともできない。それでも外側は見えている。そんな感じ……」 「エレナと猫が共存していた、ってこと」 「わからないけど。そんな感じかもしれない。アタシだけど、アタシじゃない」 深い沈黙が二人の間を過ぎる。 「エレナ、これからだけど……」 カイが何を言おうとしているのか、エレナにはわかった。だが、エレナの答えは決まっていた。 「やるに決まってんじゃん。幽霊探し。負けっぱなしなんて、性に合わないよ」 ノエルの目が潤んでいるように見えるが、画面越しのエレナにはそこまで鮮明には見えなかった。 ノエルは、ゆっくりと立ち上がろうとする。だが、力が入らずにガクッと膝から崩れ落ちた。 「あぁ、効いてきたみたいだね」 エレナは無表情のまま、起きあがろうとするノエルの様子を眺めている。 「エ、レナ……」 ノエルが絶望に歪んだ顔で、目の前の女性を睨み付ける。カイがいくらノエルを動かそうとしても、ノエルの体は言うことを聞いてやくれない。それだけではなく、カイの眼前にはいつの間にやら、あの虹色の発光体が飛びかっていた。それに気付いてしまうと、突如として気分が悪くなり、頭がグラグラと揺れ始めた。 「ゆっくり休んで。おやすみなさい」 片膝をついていたノエルは、エレナの声が発する風圧に呑まれたのように、バタッと前のめりに倒れた。 エレナは横たわるノエルに強制シャットダウンを仕掛ける。ハッキング技術に関して、彼女の右に出る者はいない。「人ならざる者」以外を除いては。 「もちろんやるよ、リベンジマッチ。私だけでね」 カイが目覚める。 辺りを見回すも、自分がなぜ床で寝ているのかがわからない。VRゴーグルをしたまま寝ていたせいか、首と頭が異様に重い。汗のせいか、服もぐっしょりと濡れており、ヘッドセットも湿っぽいので、少し清潔にしないといけなそうだ。 自分が寝ている間に何件かメッセージが来ていたようだ。またもや恐ろしい氷の女王からだったらどうしようかと思うが、今回は女王からの連絡はなかった。 数件のメッセージを確認した。くだらない宣伝などがほとんどである。その中に一件だけエレナからの連絡があった。 『おい、カイ隊員。私のゲームから突然いなくなるとはどういうことなんだい。負けを認めるのかね』 ――俺はエレナのゲームをやっていたのだったっけか。 カイは記憶を探るが、どうにも霞がかっている。カイの得意の脳内再生も今回ばかりは作動しない。 とりあえずエレナに連絡をしておこう。カイはそう思い立ち、メッセンジャーを開く。 『エレナのゲームがつまんなすぎて飽きちゃったんだよ。たぶんね』 カイは返答を打つと、冷蔵庫から水を取り出すついでに、送信ボタンを押す。 ゴッゴッゴと喉を開き、胃の中に水を流し込む。キンキンに冷えた液体が喉を伝わり、肺の付近を通り、胃の中に溜まって行く。カイはこの瞬間、えも言われぬような感覚に陥る。生きていることを実感するのだ。 『逃げ出したくせに、よく言うよ』 エレナから即レスが返って来た。どうやら暇だな、アイツ。 カイは朦朧としていた頭が少しずつ切り替わっていくのを感じていた。どうして床で寝てしまっていたのかは気にはなるが、考えてもわからないことを考えるのは時間の無駄だ。 無駄なことをするくらいならば、その時間を何か別のことに充てるべきだ。 カイは板チョコを冷蔵庫から取り出し、今度は牛乳をコップに注ぐ。それをいつもの定位置にセットし、再びVRゴーグルを装着した。 「エレナのゲームとやら、拝ませていただきましょうかね」 カイは手首を回しながら、画面の起動を待った。 「ふぅ、上手くいったかな」 エレナはカイの返信を見て呟く。 これ以上、あの小僧を近づけていはいけない……にゃ。 アタシの中に芽生えた何かが、そう告げていた。それが最善策なのか、最悪の選択なのかはエレナ自身に判別は付かなかったが、この猫は、あの場面で最後の最後には悪いようにしなかった。 あの場面――ノエルが宙に浮いてなす術もなかったあの時――で私たちを助けてくれたのは、この猫だった。猫がアタシのことを呼び覚ましてくれなければ、アタシもカイもきっとあの世界で消えていたことだろう。そもそもこの猫がいなければ、こんな厄災に巻き込まれていないという見方もあるが。 アタシの中に猫がいる。 それはもう紛れもない事実だった。あの時、カイから話を聞いた時から、少しずつ猫の記憶がアタシの中に流れ込んで来た。 このままアタシが猫に乗っ取られるのか、それとも猫が静かに消えて行くのか、それはわからない。リアル世界のアタシすらも侵食されてしまうのか、それもわからない。 所詮、人間もデータとシナプスの連携によって動くシステムに過ぎない。肉体という脆弱なハードウェアを備えた超高性能な機械と捉えることもできる。それならば、オペレーションシステムを置き換えることだって可能なはずだ。 エレナはそう考え、鼻に右手の人差し指を当てる。彼女の考える時の癖だ。 彼女は頬を赤らめニヤリと笑った。 「人間がコンピュータウイルスに侵されるとか、ゾクゾクしちゃうねぇ」 コンピュータウイルスならば、アタシでも対処のしようがある。 それでも、他人が絡むならば話は別だ。アタシ以外の人を危険に晒してまで実験をしたいとは思わない。 「いい趣味してるにゃっはー」 頭の中で、猫がケラケラと笑う声が聞こえたような気がした。 アタシの中に猫がいる。 「カイくんだっけ。彼はその後どうだい」 「一時レッドゾーンまで近付くも逃亡。逃亡後の足取りが数刻ばかり途絶えるも、今し方ログインがあった模様です」 「ふーん……惜しいねぇ。実に惜しい。あともう少しだったというのに」 「お遊びが過ぎます。もしも彼が真実に気付いてしまったならば、どう責任を取られるおつもりなのですか」 「ふふふ。それはそれで良いじゃないか。楽しい余興だよ。世界というのはね、壮大な研究所に過ぎないのさ。僕にとってはね」 「実験……ですか」 「そう、実験だよ。失敗は成功の母と言うじゃないか。失敗しても良いのさ。世界が滅びようが栄えようが、いずれにせよ成功なんだよ。失敗だと諦めない限りはね」 「……かしこまりました」 「じゃあ、引き続き監視をよろしくね」 グレイソンはそう言うと、「バイバイ」と手を振り、扉の向こうへと姿を消した。 いかにもエリート然とした女性が、自らのインカムに手を当てながら、氷のような声で部下へと指示を出す。 「あの子と一緒にいたメス猫。あの猫も監視対象に入れておいて。あの子と共に消息が不明になったから、何かを掴んでいるかもしれない。以上よ」 そう言うと、氷の女王は眉間を抑える。お坊ちゃんのお世話も大変ねと溜息を漏らす。
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