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 カイは草原に横たわっていた。  風が体を通り過ぎる。風が通る度、サーッという音とともに順々に草が体を倒し、緑が濃くなったり薄くなったりしていく。  誰もいない空間に一人。太陽もいつの間にか山の裾野に隠れるかの如く傾いていた。  こんなにも穏やかな気持ちはいつぶりだろうか。そう思う程に心は凪いでいた。  ピコン。  風の音と陽が落ちる音だけが聞こえる場所で、その電子音は随分と間抜けに響いた。 「今すぐ行く。待ってろ」  そのメッセージは、常識的に考えて、この閉鎖空間において届くはずがないものだった。  常識を超えていく存在が、このところカイの身の回りに多くいる。多くはいるが、カイを助け出そうとするイレギュラーな存在はたった一人しかいない。  カイがそう思った数秒後に、誰もいなかったはずの空間に、耳に馴染んだ声が響いた。 「何やってるのよ。行くよ」  エレナだった。猫型のアバターは、寝転がるカイを蔑んだような目で見る。お前はこんなところで何をやっているのだ。猫の瞳が雄弁に物語る。  死んだ魚のような目に乾いた表情のカイを見ていると、痛々しくなってくる。一刻も早く、こんなところからカイを連れ出さなければいけない。エレナはそう実感する。 「ほら、早く。立って。こんなところさっさと出るよ」  エレナは、カイの腕を掴み引っ張り上げる。それから、世話焼きの母親のように、お尻をパンパンとはたき、土や草を払う。 「もう……なんとか言いなさい」  そう言うと、エレナは思いっきりカイのお尻を叩くと、カイは「痛ッ」とのけぞった。 「なんだ、ちゃんと声は出るじゃん」とエレナは呟く。お尻を叩いていたその手を、カイの背中へそっと当てると、ふぅと息を吐いた。  そして、捲し立てるようにカイへと言葉をぶつける。 「心配したんだからね。死んだのかと思ったんだから。いくらカイに連絡しても繋がらないし、データもunknownになるし……心配、したんだから。本当に、心配したんだから……」  エレナの声は、水の中にいるかのようにくぐもって聞こえる。しかし、カイの胸にその音は直接響いた。その気持ちに名前を付けるならば、何と言えば良いのか。カイにはよくわからなかったが、エレナのその手の温もりをじっと感じていたいと、そう願わずにはいられなかった。  カイの口からは、自然と言葉が溢れる。 「ごめん……」 「え、なんて」  カイに表情が戻る。「うるさいな。もう言わない」と不貞腐れた表情ですら、エレナにとっては嬉しく思う。 「こんにゃところでイチャイチャすんにゃよにゃー」  エレナは猫の声に耳を傾けることなく「じゃあ、出るよ」と言ってのける。 「どうやって出るんだよ……」  カイの顔が再び暗くなっていく。ここから出るには、「ノエル」を犠牲にしなければならない。カイにとってノエルとは、自分自身だ。自分を置いていくことなどできない。カイにとって、それは自殺と同義だった。 「まったく。相変わらず鈍いわね。なんのためにアタシがこんなところまで来てやったと思ってんの。あんたを連れ出すためでしょ」  エレナが自身の胸を軽く叩く。猫が鼻息をふんと鳴らす。猫の言動はカイに届きはしないが、ゲラゲラとカイが笑い始める。 「な、何がおかしいの」  エレナが顔を赤くしてムキになるので、それがより一層おかしい。カイはいつぶりかと思うほどに笑った。声に出して笑うなどいつ以来か思い出すこともできなかった。 「エレナはすごいな。ありがとう」  カイがあまりにも素直に言うものだから、エレナもいよいよ焦る。 「な。どうしたの。どこか頭でも打った」と聞くと、カイが「そんなことあるわけない」と笑う。 「いいのかにゃ。そんにゃに呑気にしていて。あと五分もせずに、この空間は再び閉鎖空間にゃ。そうにゃれば——」 「わかってる」  エレナが突然に独りで話し出したので、カイが驚く。しかし、エレナがトントンと頭を人差し指で叩くと、「あぁ、猫」とカイは納得した。 「さて、もう時間がない。あと四分もすれば、再び取り残されちゃう。行くよ」  そう言うと、エレナが手を差し伸べる。  掴まれということなのだろうが、カイは少しばかり躊躇する。それでも「早く」とエレナが急かすので、そっと手を掴んだ。  エレナがその手を握り返す。二人がそれぞれの体温を感じる。 「ちょっと強引に抜けるからね。服やアイテムの一つや二つは覚悟しといて。あと、絶対に手を離さないでよ」  カイは頷く暇もなく、突如として体が宙へと舞い上がる。逆スカイダイビングのようにグングンと空へと近付いていく。それも猛スピードで。  顔にかかる風圧で唇が捲り上がる。まともに話すことなどできるはずもない。 「愛する人と手を繋ぎ、空へと舞い上がる……ロマンティックにゃ演出だにゃあ」  猫がニヤニヤとした顔で茶化す。  アタシがやりたくてやったんじゃない、とエレナは脳内で会話をする。出口が空にあるのがいけないんだ。 「はいはい、そういうことにしておいてあげるにゃー」  早くこの口の減らない猫と縁を切りたい。エレナは強く願う。しかし、この猫がいなければ、カイの行方を追うこともこの場に来ることも、こうして脱出することも全てが不可能だった。猫に感謝しない部分がないともいえない。 「素直に感謝の気持ちを表明することが大事だって、小さい頃ににゃらわにゃかったのかにゃ」  少なくとも化け猫に感謝をしろとは言われなかったなとエレナが答えると、「ああ言えばこう言うご主人様だにゃあ」と猫が呆れる。 「お前が言うな」  エレナが苛立ちを露わにする頃、二人と一匹はいよいよ空中にある大きな穴へと吸い込まれていった。  穴の中は真っ暗闇だった。そこに入ると上も下もわからない。ただ、落ちているような浮かび上がっているような妙な感覚が二人を支配していた。 「ここを越えれば出口だから」  エレナがカイに声を掛ける。  カイは風圧に喉がやられたのか、声が掠れてでないようだった。  真っ暗闇の中、お互いの姿すら見ることができない。だが、手の温もりは感じることはできる。繋がっていることがわかる。  それから数分すると、遠くに光が見え始めた。光に照らされ真っ暗闇の中からお互いの姿が朧げに見える。二人ともお互いに無事であることを確認し、安堵する。  しかし、全てが無事ではないということをその数十秒後に理解することになった。 「何、その格好」とエレナが大笑いする。  エレナが最初に警告した通り、カイの「服やアイテムの一つや二つ」は確かに破損していた。ズボンが全消していたのだ。かろうじてパンツが破れていないだけ良しとしたいところだった。 「な……」  カイが自身の姿を見て愕然とする。次いで、大笑いするエレナを咎めるため彼女へと顔を向ける。だが、カイは即座にその顔をあらぬ方向へと向ける。 「エレナ、えっと……」  カイにしては珍しく歯切れが悪く、その顔は真っ赤になっていた。  エレナがクエスチョンマークを頭上に表示させながら、自分の姿を見てみると、上半身が露わになっているではないか。 「にゃあああああああああああああ」  空を飛びながら、エレナの絶叫と猫の大爆笑が宙にこだました。  二人と一匹は、何事もなかったように「T」のワールド内で車座になっていた。  ただし、理由は定かではないが、カイの顔には猫が引っ掻いたような跡ができている。「ふーふーふー」と鼻息の荒い猫が、カイの隣にいるが、これ以上の詮索をするのは野暮というものだろう。 「どうせデータでしかにゃいにゃー。お前ら、気にしすぎにゃ」  鼻息の荒い猫とは違い、脳内の猫は妙に冷めた声で諭す。「これだから肉体のないやつは——」とエレナがボヤく。  自身の顔におっかなびっくり薬を塗りながら、一番の被害者であるカイが泣きべそをかいていた。 「HPがギリギリになるまで、ってどういうことよ……おー、いちち……」  バツが悪いエレナが、オホンと咳払いをする。 「何はともあれ、戻って来れたことに感謝をしようじゃあないか」 「まぁ、それはそうだけどさ……」  カイが猫に引っ掛かれる二五分前のこと。  二人は、暗い空を抜けるといつもの見慣れた地平を眺めることができた。ただし、そこは地上ではなく、上空五千メートルという高さだった。  猛烈な勢いで空へと舞い上がった二人は、今度は勢いそのままに地上へと落下していく事になる。パラシュートなどという便利な道具は持ち合わせてはいない。  カイは相変わらず風圧に負け、その唇が大きく捲り上がる。一方のエレナは、猫らしく空中でくるんと回りながら落ちていく。  だが、当然そう簡単には着地ができるはずもなかった。二人とも無傷とは程遠い状態にいた。カイは強かに地面に叩き付けられ、アニメで見るような大穴を地面に空けていた。エレナはといえば、着地は成功したものの上半身を守るものがなかったために、凍傷のような状態になっている。  そのような中で、再び自身の上半身を見られたエレナが錯乱したのがほんの少し前のことだった。  不幸中の幸いとしては、二人と一匹が落下した位置が街中ではなく、また、ユーザーがひとっこ一人いないような辺鄙な土地であったことだろう。  エレナがエヘンと改めて咳払いをすると、「さて、整理をしようじゃあないか」と人差し指を立てる。  人差し指などで注意を引いて、実際には別のところで作業をするのがマジックの基本だよな、などとカイはどうでもいいことを思い出す。 「まず、レイラがカイから離れていった。AIを分離させるということが可能だということだね」 「あまり気持ち良いものではなかったけど」 「なるほど。癒着したものを引き剥がすのだから、大なり小なりの苦痛は当然かもしれない」  大なり小なりなどというレベルの苦痛ではなかったのだが、経験したことのない人に理解してもらうのは難しいだろうと思い、カイは言葉を飲み込む。 「次に、AIたちは独自の進化を遂げていることを私は観測した」 「独自の進化……」 「そう、独自の進化。AIたちは独自の言語を使用しており、独自の判断基準で行動している。しかも、AIたちは並列で同期しているのだから厄介この上ない」  カイは途中から「んーと……」と繰り返し述べるものだから、エレナは要約して話すことにした。 「つまり、AIたちは意思統一が簡単にできるのよ。彼らは意思を簡単に統一できて、私たち以上の知能を有する存在なの。わかる。同じ意思を持ち、同じ状況を瞬時に共有し、全データにアクセスでき、かつ、全データを僅かな時間で解析できる集団であり個人なのよ、AIってのは。つまり、私たち人類にAIをてなづけるのは、神様にお饅頭を食べさせるくらいに不可能ってこと」  神様にお饅頭のくだりの意味はわからなかったが、それ以外の部分については、カイでも納得できた。だが、即座に「そんな奴ら相手にどうすりゃいいんだ」と匙を投げる。 「アタシたちにやれることなんて、何一つもない。なーんて、君は、本気でそう思ってるんじゃないでしょうね」  もちろんそんなことはないよね、という目でカイのことを見つめる瞳。猫が獲物を見つけた時のように嬉々とした光が灯っている。  カイが拗ねたようにため息を吐いた。 「何ができるって言うんだよ」 「ふふふーん」とエレナがニヤける。同時に猫も「にゃにゃにゃーん」と笑う。 「そのためには君が必要なんだよ。世界ランキング一位の天才プロゲーマーくん」  嫌な予感しかしない。カイは自身の肌から鳥肌が立つ音を聞いた。

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