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 茂木の国語力はひどいものだった。寺林いわく数学や物理の成績はトップクラスらしいのだが、この国語力では数学の問題文を正しく理解できるかも疑わしいくらいだ。それでも、出会い頭に失礼な態度をとってしまった負い目もあって、佐野は時間の許す限り面倒を見ることにした。  結論から言うと、茂木はとにかく漢字の読みが苦手だった。破綻を「はじょう」と読み、辺鄙を「へんきょう」と読む。そして、思い込みが激しい。漢字の読み間違いを媒介にありもしない概念とアソシエートされた文脈は、茂木の頭の中で翼を得た鳥のごとく飛躍し続け、全く新しい物語として再構築されるのである。ただその一方で、どうやら難しい言葉の読み方とちゃんとした意味さえ掴めば人並みの読解力があるらしいことも分かってきた。二時間半にわたっての二人がかりの指導の末、結局は漢字や熟語を地道に勉強してゆくしかない、ということでこの日は話がまとまった。 「そういえばさ」  氷が溶けて殆ど水になったコーラをすすりながら、佐野は聞いてみた。 「志望校ってどこなの? どこの何学部?」  茂木は現国の過去問を鞄にしまいながら答えた。 「志望校、迷ってるんだ。W大の理工学部の物理コースか、T大の理学部で生物やるか。」 「物理か生物なの? 偏差値ってこと? いや、違うよね。どっちも倍率超高いし」 「平たく言うとね、宇宙に行くか南極に行くかって話。あと、最初は音大かなって思ってたけどそれはやめにした」 「ああ、それ前も言うてたなあ。やめにしたんや」  寺林は事情を知っていると見えるが、言うことがあまりに突飛で佐野にはいまいち飲み込めない。 「いやいやいや、全然平たくないし。物理と生物と宇宙と南極と音楽ってどこでつながってるわけ」 「だから音楽はやめて、理系に絞ろうとしてるところなんだよー」 「もげぽよはな、趣味でウクレレをやってんねやんか。それで本気で音楽の道に進もうか考えとったんよな?」  言葉の足りない茂木に寺林が補足する。 「うん、そうだったんだけど、なんていうか私ちょっと勘違いしてたっていうか。別にライブ活動とかしてないし、音大って受験科目にピアノがあるけどピアノはできないし。ウクレレ自体は楽しいんだけど、アカデミックに極めたいわけじゃないんだなあって」 「それで、宇宙と南極は?」 「宇宙は小さい頃から漠然と行きたいなあと思ってて。でも南極も捨てがたいんだよね。越冬して南極の生物を観察するとかさ、なんか憧れるよね。なんというか――目標は大きいほうがやりがいがありそうだし」 「なるほどねえ」  なるほどねえと言いながらも、佐野自身は宇宙と聞いてもピンと来ないし、南極で越冬したいとも思わないので、それ以上深追いする気もない。なんだかスケールはやたらと大きいけれども大雑把で、聞いている方としてはどうでも良い話だ。ただ、大学で学ぶ動機としてはこれぐらいで丁度良いのかもしれないとも思った。佐野自身は昔からムーミンの小説が好きで、いずれはムーミンの作者トーベ・ヤンソンの作品を原語で読めるようになりたいと思っていた。そしてその夢は実際に進路を決める上での重要な基準となった。ムーミンの原語はスウェーデン語である。しかし、佐野が家から通える大学でスウェーデン語を教えているところはなかったので、言語的に比較的近いドイツ文学科のある大学を片端から受けることにしていた。  雲を掴むようなぼんやりとした目標と、具体的な道筋ははっきりしないけれど、入ってしまえば何となく道は開けるかも知れないという楽観主義。この二つを持っているという点では茂木に共感できる気がした。けれどもそういう話はまたおいおいすれば良い。ファーストフード店の固い椅子で二時間半も勉強を見ていたのだ。いい加減疲れたから今日のところは退散しよう。そう思ったところで茂木がつぶやくように言った。 「でも、本当のところちょっと動機が弱い気がする。あたしこのままでいいのかな」  寺林が答える。 「もげぽよ、ちょっと考え過ぎなんちゃうかな。あたしらは二人とも独文志望やけど、動機なんて単純なもんやで。あたしなんてジャーマンメタルが好きなだけ。入ってからのことは想像もつかへん」  茂木は腕を組んだまま、口をへの字にして黙っている。佐野はさっき感じた共感のようなものが実は勘違いだったらしいことが分かって、少しばかり気まずさを感じた。動機が弱いと言われれば自分は何も言えない。ただ、自分はもう決めているのだ。ぼんやりとした目標でも、大体その方角に向かってがむしゃらに進んでいけば、そのうちどこかに辿り着くだろう。それでいい。しかしこの子の考え方は違うらしい。だから、自分の言えることはあまりないみたいだ。 「ごめん、あたしそろそろ帰るわ。進路は決まってなくても、国語は頑張って。漢字はとにかくやろう」  佐野はそう言いながら席を立った。 「あっ、いきなりこんなに付き合ってもらってごめんね。佐野さん、本当にありがとうね」 「サノッピーでいいよ。またね、もげぽよ」  またね、とは言ったものの、残りの高校生活でクラスの違う茂木に出会うことは殆どなかった。受験勉強はいよいよ忙しくなり、あっという間に毎日が過ぎてゆく。そんな中で茂木が進学を諦めたことは寺林から確かに聞いた。しかし、その時自分がどのように反応したかは実のところ覚えていない。

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