世界中の青空をあつめて
第二章 約束を探して 8

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 コンビニまで車で三十分かかる愛媛の実家で、半年間、無為な生活を送ってきた。体や心が土地に慣れてしまうのはあっという間で、今ではもう、東京にいる自分がうまくイメージできない。  と、新幹線の中では思っていた。  東京駅に着いて数秒で、体中を駈け巡るように記憶が揺り戻された。ホームの人混みや、それぞれ人の表情といったものが、愛媛とはまるで違う。それぞれの目的をもとに歩く人々の、そのうちの一人として、自分が吞み込まれていく。かつての自分がそうであったように、土地に所属しているのではなく、空間に含まれた意志に従うように和樹は歩いている。  だけどそんなふうに感じるのは、きっとほんの少しの時間なのだろう。中央通路を歩く和樹は早くも、この場所の音や、空気の密度や、時間の流れ方に慣れ始めている。慣れというのは不可逆で、やがては何も感じなくなるのだろう。  練馬までの道中、初めて東京に来たときのことを思い返していた。最初は知り合いも友だちもいなかったし、あかさかというところにはどんな坂があるのだろう、などと思っていた。  驚きやカルチャーショックを楽しみながら、和樹は少しずつ自分の居場所を作っていった。電車に乗り遅れてもすぐに次が来ることを知り、エスカレーターでは左側に並ぶことを覚え、みょうだにに谷がないことも理解した。やがておおくらや、くろよこやまの読み方も覚えた。  この場所で自分に何ができるのかなんてわからなかったけれど、世界が広がっていくのにわくわくした。友人や知り合いが増え、できることが増え、やりたいことも増えていった。やがて和樹は一つの夢に向かって走りだした。  再契約した携帯電話のメモリーに入っているアドレスや電話番号を、和樹は眺める。懐かしい名前や、全然覚えていない名前もある。どちらにしても和樹の番号は変わってしまっているから、彼らからここに連絡が来ることはない。  考えてみればもう、ずっと前から誰とも会っていなかった。父と母と祖父以外の人と、最後に会ったのはいつだろう。家族以外と、会話らしい会話を最後にしたのはいつだろう……。  あれが最後だったのかもしれないな、と、和樹は思いだした。姿形は覚えていないけれど、当時の和樹とは正反対の、はつらつとした女性だった。郵便局で順番を待っていたとき、となりの席から、 「あの、」  と話しかけられた。  ──次はあなたの番じゃないですか?  僕の番はもう、回ってこないんです、と和樹は返事をした。  どうしてそんな返事をしたのかはわからない。その言葉がちゃんと、彼女に届いたのかどうかもわからない。  リハビリのようなことになるのかな、と思う。これから足を使っていろいろ調べるつもりだけど、知らない人とたくさん話すことになるだろう。かつては仕事となれば、他者にがんがん切り込んでいった和樹だけど、これから小さな使命を果たすために、久しぶりにそれをしなければならない。  調べるといっても、たいしてあてがあるわけではなかった。手紙に書いてあった五人の名前と、中学の名前。それから祖父が中央大学に通っていたということ。写真の場所はおそらく、練馬区にある中央大学のグラウンドだということ。  午前中に愛媛を出たのだが、練馬駅に着いたのはもう午後四時だった。中学校を訪ねたり、図書館で調べものをしたりするには中途半端な時間だ。今日のところはグラウンドにだけ寄ってみることにする。  祖父は中大グラウンドと言っていたが、中央大学のグラウンドは別の場所に移転しており、今は練馬総合運動場というらしい。地図によると、練馬駅からまっすぐ北に進めば、そこに辿り着くようだ。  ゆるい日射しが、秋の訪れを告げていた。駅から十分くらい、和樹は気持ちのいい風に吹かれながらのんびりと歩いた。ジョギングする人や、犬の散歩をする人たちと何度かすれ違う。低層のアパートや民家が点在する道の先に、やがて背の高い木々が見えてくる。  練馬総合運動場──。  そこは古くて牧歌的な運動場だった。身長よりも少し高い網目のフェンスがあって、数メートルおきに大きないちょう杏《》が生えている。フェンスに沿って進むと、小さな川に突き当たる。しゃくがわ、と書かれた看板がある。川と競技場に挟まれた歩道が、まっすぐに延びている。  右側はフェンスに沿って銀杏並木になっていて、左側は石神井川に沿って桜並木があった。もう少し経つとここは黄色い並木道のようになるのだろう。さらに季節が進むと桜色の並木道になる。  気持ちのいい道だったので、このまま競技場を一周してみることにした。背負っていたリュックから、祖父から預かった白黒写真を取りだす。歩きながら、写真と似た場所がないか探してみる。  運動場の中には、ほとんど人はいなかった。遠く中学生くらいの集団が走っているのが、かろうじて見える。土のグラウンドだったけれど、広さはかなりあって、おそらくは一周が四百メートルのトラックだ。トラックの内側ではサッカーができるようで、ゴールポストが設置してある。トラックの外にもゲートボール場や、小さな野球場などがある。  五十数年前、ここはどんな感じだったのだろうか……。  写真との共通点を見つけられないまま、やがて競技場の外周をほぼ一回り歩いてしまった。練馬総合運動場、と書かれた看板が見える。正面入り口のフェンスは開け放たれており、自由に出入りすることができるようだ。  陽はだいぶ落ちてしまっており、フェンスの中に人はいなかった。グラウンドの手前に、青い屋根の事務所らしき建物がある。プレハブの倉庫や、貯水槽のようなものも見える。  何となく探偵になった気分だった。事務の人がいたら、写真を見せて何かわかるか訊いてみよう。何もわからなかったら、誰か昔のことのわかる人が他にいないか訊いてみよう。  事務所の入り口のとなりに、受付カウンターのようなところがあった。窓の内側のカーテンが閉まっている。隙間からのぞき込んでも、中の様子はよくわからない。  押しボタン式の簡素なブザーがあった。押しても手応えがなくて、事務所の中で音が鳴ったのかどうかもわからない。  ボタンに指をあて、目を閉じてみた。耳を澄ましながら、ゆっくりボタンを押す。遠く、ぴんぽーん、と音が聞こえた。 「あの、」  背後から突然、その声が聞こえた。振り返るとカジュアルなスーツ姿の女性が、感じよく微笑んでいる。 「今日はもう、閉まりましたよ」  和樹の表情は固まっていた。  言葉のでない和樹の頭のなかで、何故だか郵便局での光景がよみがえった。あのときの女性が今、目の前にいるような気がする。この半年間の空白が突然もぎとられ、頭と尾が繫がったような感覚に、意識がくらみそうになる。  突っ立ったままの和樹に困ったのか、女性は曖昧な笑顔を作った。簡単に会釈をしてそのまま立ち去ろうとする女性に、和樹は慌てて声をかけた。 「あの」  足を止めた女性に、和樹は頭を下げた。 「ありがとうございます」  どういたしまして、という感じに会釈した彼女に、和樹は再び話しかけようとした。 「えっと、すいません」 「はい」 「あの、どこかでお会いしたことありますか?」 「え?」  驚いた表情をした彼女が、すぐにしそうに口元をゆるめた。辺りが薄暗くなるなか、和樹とその女性はしばらく目を合わせる。 「んー……わたしはちょっと、わからないですけれど、どこかでお会いしましたか?」 「いや!」  久しぶりの他者との会話に、和樹の声は上ずっていた。 「多分、僕の気のせいです。すいません」  頭の使い方を忘れてしまったかのようだった。相手の言うことや状況を把握し、言葉を選び、それを口にする。かつての自分がどんなふうに、そのサイクルのなかで話していたのか、よくわからない。 「あの、それで、写真があるんですけど」  自分の唐突な言動に自分で焦りながら、ポケットから写真を取りだした。彼女は黙って和樹に歩み寄ってくれた。 「えっと、この写真の場所を探しているんです。古い写真なんですけど」 「これは、ここの写真ですか?」 「ええ、多分」  写真を手に取った彼女が首をひねった。 「んー、ちょっとわからないですね、いつごろの写真なんですか?」 「五十年以上前です。おそらく五十五、六年前の」 「五十五年!?」  和樹をゆっくりと見上げた彼女が、ふふ、と、小さく笑った。 「それじゃあ、わたしにはわかりませんよ」 「……そうですよね」 「管理人さんなら、何かわかるかもしれないですね。明日になれば、またいらっしゃいますよ」 「はい、そうですか。わかりました。ありがとうございます」  写真を受け取った和樹は、また口を開いた。 「あと、すいません。練馬区立開進第二中学ってのは、どこにあるかわかりますか?」 「え!? 近くですよ。すぐそこです」  驚いた顔をした彼女が、くるりと振り返って運動場の外を指さした。 「ああ、そうなんですね。ありがとうございます」  お礼を言う和樹を、彼女が不思議そうな表情で見つめた。 「いえ……。じゃあ、わたしは失礼しますね」 「はい。本当にありがとうございます」  運動場の門から出ていく彼女の後ろ姿を、和樹はしばらく見送った。  可愛らしい人だな、と今さら思った。健康的で、笑顔がきれいな女性だ。自分が他人に対して好感を覚えたのは、いつ以来のことなんだろう。  ずっと他人の目が怖くて、話していると、その場からすぐに立ち去りたくなるような強迫観念があった。だけど愛媛での日々が和樹を回復させたのかもしれないし、あの女性に他人を緊張させないような何かが備わっているのかもしれない。  半年ぶりの家族以外との会話に、和樹の気はたかぶっていた。写真をしまい、時間を確認する。管理人さんを訪ねるのは明日にしよう、と思う。  リュックを背負いなおした和樹は、練馬駅に向かって歩きだした。

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