「死にたいんですか」 まるで気のない問いだった。くたびれた白衣を羽織った男は、丸眼鏡を通して分厚い専門書に目を落とし、斜に座っている。広い畳に大きな文机は、獺祭の散らかりようだ。ここに来れば死ねると聞いて来たが、疑わしくなった。 「きっぱり死にたいのです」 「きっぱり、ですか」 「はい。きっぱりさっぱりこの世からいなくなってしまいたいんです。お願いします」 こちらも引く気などさらさらないから目が合うまで見据えてやった。頭に血が上ってきた。 「死ぬってのはね、あなた。余程時間の要ることですよ」 溜息とともに体をこちらに向けて言う。 「土に還るならそれなりにかかるでしょう」 「いや、もっとです。 ああ死んだ、と思ってからが長いんです」 「地獄に行くまで覚悟が出来て都合がいいですね」 そこからまた睨み合った。 「ようござんしょう、引き受けました」 やおら立ち上がると、男は脇の行李から白装束を出してきた。 「死に装束ですか」 「ええ、死ぬんでしょう。 準備はしっかりするに越したことはない」 「はあ、まぁ」 死に装束を両手に、くたびれた白衣もこれくらい糊がきいていればそれらしかろうにと思って眺めていると、何を勘違いしたか 「あの、頭につける三角の知ってますか。 あれ、うちではやりませんから」 という。 「いや、こだわりません」 「そうですか。 それは良かった」 「ここで着替えて良いんですか」 「廊下向かいの座敷で着替えて下さい。 そうしたら、襖続きに隣りの間に進んで」 「はい。あ」 「なんですか」 「足袋もないんですね」 「どうせ足もなくなるんですから。一刻も早く土に還れた方が良いでしょう」 「そうですね」 それならいっそ着ない方が、と思ったが丸裸になるのも嬉しくないので言うのをやめた。自分という人間はかように狭量だと実感すると、いっそう滑稽に思えた。 着替えて隣の間に進むと、精進料理が一膳あった。白米からは湯気が立ちのぼっている。 襖越しに廊下から男の声がする。 「食べきれなかったらそれでも結構です」 「はい」 「厠は突き当りです、万事ゆっくり済ませたら診察室にお戻り下さい」 丁寧なんだかつっけんどんなんだか分からない医者だ。 飯はこんなに味のするものだったか、と思う間に食べ終えた。もとより満腹になるような量ではないから、大食いには不足だろう。 用を済ますついでに顔を洗って戻った。風呂はないようだったので、家の風呂を使ってきてよかったと思った。 診察室に入ると、縁の先に続く庭に人が横になってすっぽり入れる穴ができかけていた。男の手には、手のひらほどもあろうかという大きさの真珠貝があった。 「ゆっくりと言ったじゃありませんか」 男は腰をたたきながら土だらけの体を起こし、こちらを恨めし気に見た。 「言って下さったら私も手伝いましたよ。もう入れそうですね」 だから私は死ぬのは大変だと言ったんです、などとこぼしながら、男は穴を一瞥して言った。 「入ってみます?」 「今ですか」 「うちではこういうやり方なんです」 「これはまた、存外苦しそうな」 「やめますか」 「やります、やります」 なんだかいける気がして穴に横になると、しんとしていい具合だ。 「ああ、いい具合です」 「皆さんご満足いただけます」 「そうですか」 「土をかけると日がくれます。そして」 「ひょっとして、星の欠片でも降るんですか」 「話の腰を折らないでください。今重要な流れを説明しているんですから」 「すみません」 とまあこういう具合で、星の欠片が土の上に置かれて、赤い日が出て、沈んで、出て、沈んで、それを見ながら百年この医者は隣で待つという。 「この庭に……先客はどれくらいいるんですか」 「そんなね、何人もできるもんじゃないんです。 あなたが終わるまで私はかかりっきりですよ」 「極楽浄土の扱いですね」 「だけども丹精込めたからって成功するとも限らない」 「死ねないんですか」 「いや、死にます。 死にはしますが、こう、百合の花がすーっと伸びてきてね、咲いたら成功です」 「失敗するとどうなりますか」 「死にます」 「なるほど」 ちっともわからなかったが、死ねば関係はないと考えたから、黙って土をかけられた。 土はほろりといい匂いがして、頭までかぶっても意識をやれば空を見ることが出来た。星の欠片はのせる時こそしゃらしゃらと良い音を立てたが、それきり鳩尾ごしに黙っていた。見える範囲で医者がぼんやりしているのを見ながら、日が上って、沈んで、また上っていくのを見ていた。医者はどうやら飯やら厠やらに立つことがあったが、こちらは死んでいるから自由である。そうしていくつもいくつも日は上って沈んだ。 なんで死にたかったのか、そんなことはどうでもよかった。日が上る。今死んでいると思うと、それがよかった。日が沈む。医者は慣れているのか日向ぼっこしたり本を読んだりしていたが、付き合わせて悪かったろうか、と思った。日が出た。自分が何者かも忘れてきた。 何遍でも日は上っては沈み、いつしか何か芽吹いた。強い香りに、ゆれるゆりのはな。 そうか、成功したんだな。
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