嘘にまみれた世界でボクたちは
1.彼女は傘を差さない

作品に栞をはさむには、
ログイン または 会員登録 をする必要があります。

 雨が降っていた。それなのに彼女はお構いなしに歩くから。振り向いて、雨に濡れた顔で微笑むから。思わず駆け寄って傘を差し出した。自分の肩が濡れるのを感じたけど、そんなのどうでもよかった。 「別にいいよ。雨、嫌いじゃないし」  彼女の声をちゃんと聴いたのは初めてかもしれない。同じクラスだけど、そういえば話したことはなかった。少しハスキーで落ち着いていて、だけど女の子だとわかる声。彼女に言うと嫌がられそうだけど。 「アタシもいいの。雨、嫌いじゃないから」  学ランが重く感じる。ずいぶん雨が染み込んできたようだ。まるで自分みたい。毎日嘘を積み重ねて、その一つ一つがじわじわ体を重くする。それでもボクは彼女に傘を差し続けた。雨脚が強くなる。 「嘘つき」  彼女は笑う。その顔は子どものように邪気がなくて、だけど黒い瞳は非難するようにボクを捉えていた。くるり、一回転して傘から逃げる。彼女の学ランがまた、雨に濡れて重そうだ。 「じゃあな、アイちゃん」  ボクのあだ名をわざとらしく呼んで、彼女は軽やかに去っていく。降りしきる雨の中。すべて受け入れて。  いやだ、ひとりでいかないで。ぼくをおいていかないで。ぼくだって、ほんとうは。きみみたいにみがるに、うそなんてつかずに、まっすぐ、じぶんらしく。生きてみたいんだ。  心の声が雨音にかき消される。放課後のほんの数分。きっと誰も知らない、ボクと彼女――一戸瀬ひととせあいの、会話とも呼べない初めての会話。  雨が重い。嘘が重い。ボクはどこで、間違えてしまったんだろう。 「アイちゃん、今日から教育実習生来るんだって!」 「しかもイケメンだってよー」 「アイちゃんビッグチャンスじゃん!」  朝礼のために集まった体育館で友達――と言っていいのかわからないけど――が口々にそんなことを言ってくる。へらへら笑って「ヤダ楽しみー」なんてキャラを守る、ボク。  もともと目が大きくて、いわゆる女顔だったボクはそれがコンプレックスで、少しでも男らしくなろうと筋トレしたり日焼けしたり、背だって伸ばしたくて牛乳を毎日飲んだりしてみたけど。  背は167センチで止まり、さして筋肉もつかず、日焼けしたあと真っ赤になって大変だっただけで、『女子のような男子』として高校生になってしまった。  また、入学した高校も悪かった。中高一貫校で、中等部のうちにそれぞれのポジションが決まっている。高等部から入ったボクのポジションを決めるのはボクではなく、クラスの中心人物――今ボクの回りにいる友達だった。  会話は「かわいい」から始まった。続けて「女の子みたい」だとか「あたしよりかわいい」だとか、最終的に「心は女の子なんじゃないの?」と誤解され、ボクは『女子のような男子』から『女子になりたい男子』というポジションになった。  否定できないまま、もう二ヶ月が経とうとしている。中学の頃の友達が聞いたら笑うだろう。「いや、おまえはずっと男子になりたくて頑張ってる男子だろ」とか、笑いながら言われるに違いない。 「来た来た、イッケメーン」  友達が耳打ちしてくる。現実に戻って壇上を見上げれば、イケメン。わざわざ紹介するのか。しかも壇上で。大げさだなとは思いつつ、遠目で見てもわかる背の高さと顔立ちの凜々しさが、素直に羨ましい。 「今日からお世話になります、一戸瀬永遠とわです。こうして母校に戻ってくることができて、とても嬉しく思います」  イケメンの声が遠くなる。ざわつくクラスメートの声も、遠くなる。振り返ると彼女がいた。朝礼のときはいつも列の最後尾、それも前の人と距離を置いて、彼女は一人で立っている。今日もそうだった。  もう夏服の季節だというのに、彼女は今日も学ランだ。真面目に半袖のシャツを着ている自分がなんだか恥ずかしい。  彼女の学ランが一回り大きいのは、ボクみたいに成長期をまだ諦められないからじゃない。お兄さんの学ランを譲り受けたのだと、噂には聞いていた。そもそも彼女は学ランじゃなくて、他の女子と同じようにセーラー服を着るべきなんだろうけど。彼女は『男子になりたい女子』なのだと、これも噂で聞いた。  目が合う。嘘を許さないような、黒い瞳と。お兄さんの挨拶が終わったらしい。たくさんの拍手が、まるで雨音みたいに響いた。 「一戸瀬さん、さっき紹介されてたの一戸瀬さんのお兄さん?」 「だったら何?」  朝礼が終わり、いつも通り教室で授業が始まるのを待つ。友達は窓際最前列の一戸瀬藍に話しかけて、不機嫌そうな視線を食らっている。いつにも増して切れ味がすごいなぁ、なんてボクは蚊帳の外で思う。 「……いや、アイちゃんが! 好きになっちゃったかもって!」  蚊帳の外にいたつもりが、中にいたみたいだ。クラスメートの好奇と侮蔑の視線が集まり逃げたくなる。でもボクは、逃げられない。 「うん――想像以上にイケメンで、アタシちょっとタイプかも?」  へらへら笑った。友達も笑ってくれた。一戸瀬藍は、当たり前に笑わない。誰よりも冷ややかな視線をくれる。ああ早く先生来て授業始まらないかなぁ。 「うちの兄貴モテるからねぇ。毎晩、違う女抱いてたし。あー、男もいたかも。アイちゃんもイケんじゃん?」  ちょっと想像してしまって血の気が引く。冷やかしモードだったクラスメートたちも静まり返る。イケメンだけど、真面目そうに見えた。いわゆる好青年って感じで。思ってたんと違う。 「あはっ、冗談だよ! うちの兄貴はクソ真面目で、オレが知るかぎり彼女いたことないし」  笑えない冗談を言ったあと一人で笑う一戸瀬藍に、血の気が引いたまま固まる。この空気ボクがどうにかしなきゃいけないの? 蚊帳の外にいたかった。 「や、ヤダァ、冗談キツイんだからー」  チャイムが鳴って、同時に先生が教室に入ってきた。遅いよ! チャイムも先生も! ひとまず教室の空気はなんとかなったけど、生きた心地がしなかった。睨みたい気持ちになって一戸瀬藍を見たら、目が合った。口元だけで微笑んで机に向き直る。何で。  仲間意識? ボクを『女子になりたい男子』だと思っているから? ボクは女子になりたいわけでもないし、男子が好きなわけでもない。なのに、何で。  一戸瀬藍の微笑みが消えない。ボクは彼女の仲間じゃないのに、彼女のことを無駄に意識してしまう。たしかに嘘のない彼女の生き方に憧れはするけど――心の中で彼女なんて呼ぶのは、『男子になりたい女子』である一戸瀬藍に失礼かな。  なんて呼べば嫌がられないかな。こないだ初めて話したばっかりで、二回目がこんなよくわからない会話で。三回目があるなら訊いてみたい。他のクラスメートと同様に、一戸瀬さんって呼ぶのが妥当だろうけど。  特別な呼び方をしたいわけでも、特別な関係になりたいわけでもないけど。一戸瀬藍に、アイちゃんと呼ばれるのは嫌だ。自分でも理由はよくわからないけど、きっと同じアイちゃんだから。 「アタシもミルクティーがいーなーっ」  昼休み。自販機で五回目のミルクティーのボタンを押すと同時に、後ろから声をかけられて。わかりやすくかわいこぶった声だったから、振り向いて確認しても理解が追いつかなかった。ニヤニヤ笑う一戸瀬藍が、本当にさっきの声の主なのか。 「何だよその目、冗談だって」  落ち着いた声に戻って、なぜだかボクまで落ち着く。一戸瀬藍もドリンクを買いに来たのか。五個目のミルクティーを抱えて、自販機の前を譲る。思いのほか早く三回目が来てしまった。 「いっつもさぁ、嫌になんないの? そういうの」  小銭を入れ終えた一戸瀬藍が、ボクが抱えたミルクティーたちを指してくる。そういうの――パシられていることを、言っているんだろう。 「別に、アタシも飲むから。ついでだよ」  お金も預かってるし、散歩がてら自販機まで買いに来てるだけだ。仮にボクが断ったら友達のうちの誰かが五人分のドリンクを運ぶことになる。ボク以外みんな女子だし、女子にそういうことをさせるのは抵抗がある。こんな見た目でこういうキャラだけど、ボクは男だ。 「ふーん」  一戸瀬藍は気のない返事をしてから、ストレートティーのボタンを押した。砂糖もミルクも入っていない、甘くないストレートティー。一戸瀬藍のことを一つ知れた気がして嬉しくなる。 「チェンジチャンス!」  なぜかミルクティーとストレートティーを交換する一戸瀬藍。混乱したまま「ちょっと!」とだけ言ってはみたけど、取り返す術はない。だってボクは両手がふさがっている。 「不自由だねぇ、逢沢あいざわ日向ひゅうがは」  突然名前を呼ばれて、さっきから突然ばっかりで、ボクはいよいよ固まる。思考が追いつかない。自販機に背を向けて歩き出す一戸瀬藍。教室に戻るんだろう。ボクも、戻らなきゃ。わたわた追いかけると、一戸瀬藍は早速ストローを刺してミルクティーを飲み始めた。 「うわっ、甘っ! いっつもこんな甘いの飲んでんの? さすが女子!」  そんなことより。ボクの名前、ちゃんと知っててくれたの? そのうえでアイちゃん? いや、キャラがキャラだけに仕方ないんだけど。でも。 「オレもあいつらみたいにアイちゃんって呼んだほうがいいの?」  黒い瞳がボクに向く。この流れなら訊きたいことも訊けそうだ。だから、言いたいことをちゃんと言おう。 「で、できれば普通に」 「普通って?」 「あ、逢沢、とか」 「……日向だな」 「え?」 「無駄にかっこいい名前で面白いじゃん」  何も面白くない。無駄にかっこいい響きだから、名前負けしてるとか何とか、散々友達に笑われてきた。そもそもアイちゃんからの日向って、ギャップがヤバすぎないか? 「じゃあ、アタシは藍ちゃんって呼べばいいの?」 「はあ? いいわけないだろ、なに調子乗ってんだよ」 「じゃあ一戸瀬さん?」 「そうだな、うん、敬ってる感じあるし」 「何でアタシがへりくだらなきゃいけないのよ」 「だって日向、オレのこと好きじゃん」  普通に話せているのが不思議で、教室まで永遠にたどり着かなきゃいいのに、とか思ってしまったけど。え? 好き? ボクが一戸瀬藍――一戸瀬さんを? 仮にそうだとしても直接言う必要ある? え、今、何が起きてるの? 「藍」  男の声だった。少し怒りが滲んで聞こえる、男の声だった。一戸瀬さんの下の名前だと気づくのに時間がかかった。だって一戸瀬さんはいつも苗字で呼ばれているし、ボクは今とても混乱しているから。  廊下の向こうから歩いてくるのが今朝のイケメンだとわかって、そりゃあ兄妹なら下の名前で呼ぶしかないよなぁ、なんて納得。 「おう、兄貴。初日はどうよ?」 「ずっと緊張してるよ。わからないことばっかりで」  一戸瀬さんにやわらかく向いていた視線が、鋭くボクに移る。まるで威嚇するような鋭さに、さっきとは違う意味で混乱する。 「日向。同じクラスなんだ」 「……妹がお世話になってます、日向くん」 「あー、くん付けはちょっとアレかも」 「じゃあ、なんて呼べばいいかな」 「普通に苗字で、逢沢でいいんじゃね?」  見えないバリアを張られている。これ以上、妹に近づくな。そんな心の声が聞こえてきそうだ。兄妹って普通こんなに仲がいいものだっけ? 他人を敵だと見なして寄せつけない、そこまでして妹を守る必要がある? 「一戸瀬さん、ボクはこれで。失礼します」  ぺこり、会釈して二人から離れる。命の危険を感じたせいで、無駄に心臓が大きく動いている。早く教室に戻らなければ。まだ視線を感じる。この鋭さは一戸瀬さんじゃない。一戸瀬さんのお兄さんはどこか、オカシイ。

応援コメント
0 / 500

コメントはまだありません