教室に戻って、みんなにミルクティーを配って、ようやく息ができた。命の危険を感じたせいでまだ心臓が騒がしい。早く、普通に戻らないと。 「あれ、アイちゃん違うやつじゃない?」 「――売り切れちゃって」 「交換したげようか?」 「大丈夫、今日はこういう気分だから」 「アイちゃん大人ー」 一戸瀬さんと交換したストレートティーにストローを刺して、一口。甘くない。でも、飲みやすくておいしい。次からこっちにしようかな。 「いやー、それにしても永遠先生、マジでヤバイよねー」 「そのヤバイはどういう意味で?」 「イケメンすぎてヤバイ?」 「いや、イケメンはイケメンだよ? でもそれ以上にちょっとヤバイの出てきちゃったんだよね」 「あんたマジで探偵になれるよ」 「スパイもアリじゃん?」 「あたしの情報網マジでヤバイからね!」 「……で、何が出てきたの?」 いつも聞き役で話を振られたときにだけ参加するボクが自分から割り込んできたことが意外だったらしい。それぞれ目配せして、ニヤニヤと好奇心たっぷりに笑う。 「やっぱアイちゃん、好きなんじゃん! 永遠先生のこと!」 「別にそういうわけじゃ」 「隠すな隠すな、うちらの仲じゃん」 「うちらはアイちゃんの味方なんだから!」 バシッと背中を叩かれて、反射的に笑顔を返した。味方って何だろう。ボクたち、どういう仲だっけ。――友達だ。うん、友達。 「アイちゃんが永遠先生に本気なら、ちょっとショックかもだけど」 「何、そんなヤバイの?」 「永遠先生、極度のシスコンなんだって」 それだけ? という気持ちと、それでか、という気持ちが入り混じる。シスコンだから、妹が大事だから――でも、だからって殺意まで立てる必要あるか? 極度のシスコンならある、のか? 「毎日、車で送り迎えしてるらしいよ。一戸瀬さんが断っても心配だからって。しかも、一戸瀬さんが一人で帰ってきたら怒るんだって。怖くない?」 あの雨の日、一戸瀬さんは一人だった。だからボクは一戸瀬さんと話すことができた。別に話したかったわけじゃないけど、体が勝手に一戸瀬さんへと走り出してしまったから。 「あー……でもそれは、アレじゃん?」 「一戸瀬さんのアレね」 「お兄さんだって心配でしょ」 「あんなことあったら誰だって、ねぇ?」 「……アレ、って?」 急に話がぼやけて、まるで理解できなくて、たまらず訊いた。さっきまでニヤニヤと楽しそうだった視線が、何やら濁ってボクに向く。 「いや、こういうのは勝手に言っちゃダメだと思う」 「アイちゃんだから言わないんじゃないよ!」 「一戸瀬さんは、勝手に言われたくないだろうし」 「ごめんねアイちゃん」 ううん、力なく首を振ることしかできない。こういうとき中高一貫校のつらさを感じる。みんなが知っていることをボクだけが知らない。別にボクだってむやみやたらに知りたいわけじゃないけど――一戸瀬さんのことは、知りたい。 ストレートティーを飲む。喉元に引っかかった苦みを取るには、甘さが足りない。甘すぎるミルクティーに押し流してほしい気持ちになる。 何があったのかはわからないけど、一戸瀬さんに何かがあった。その事実がボクにはどうしようもなく苦い。 「日向」 一戸瀬さんに名前を呼ばれたのは放課後、校門を出たところだった。今日はボクを慰めるという名目で、友達とカラオケに行く予定。じゃんけんに負けて持たされたカバンたちが少し重い。ボクはこういう運がない。 一戸瀬さんが近づいてくるあいだにも、友達は「いつの間に一戸瀬さんと仲よくなったの?」「まずは妹と仲よくするって魂胆ね」「アイちゃんってば意外と策士!」なんて口々に言ってくるけど。ボクは一戸瀬さんの黒い瞳を見返すことしかできない。余裕がない。 「悪いんだけど、日向、借りてってもいい?」 「うん、それはもちろん」 「むしろどうぞ」 「うちらはアイちゃんの味方だよ!」 「カラオケはまた今度ね」 持たされていたカバンがなくなって、体がいくぶん軽くなる。反射的に手を振り返してはいるけど、気持ちはそこになかった。ボクを冷ややかな目で見てくる一戸瀬さんにしか、気持ちが向かない。 本当にボクを名前で呼ぶことにしたんだ。たしかにさっき聞いた。日向って、一戸瀬さんが言った。家族に呼ばれる日向とも、中学で友達に呼ばれていた日向とも、違って聞こえるのは何でだろうか。 「こういうの、いじめって言うんじゃない?」 だけど一戸瀬さんが切り出してきたのはそんな話題だった。助けてくれた、のか。そんなの頼んでないけど。なんて、心の中で悪態をつく。 「いっつもじゃんけんで負けるのはさ、あいつらがグルだからだよ」 そんなこと、言われなくてもわかってる。ボクはこれでも男だから。もしボク以外の誰かが負けても、きっとボクはみんなのカバンを持つだろう。 それに、いつもじゃない。そもそもいつも一緒に帰ってない。今日はみんなでカラオケに行こうってなったから、だから――一戸瀬さんとお兄さんとは、違う。 「一戸瀬さん、こんなとこに一人でいていいの? お兄さん心配してるんじゃない」 ささやかな反撃のつもりだった。だけど思いのほか威力があったらしい。その証拠に一戸瀬さんの目から光が消えて、ボクは今さらながらしまったと思う。 「聞いたんだ? アレのこと」 慌てて首を横に振るけど、あまり意味がない。ふっと、諦めたように笑う一戸瀬さん。ボクを笑ったのか、それとも。 「藍!」 その声は怒っているように聞こえた。駆け寄ってきた一戸瀬さんのお兄さん――永遠先生が、ぎろりとボクを睨んでくる。 「すぐ車回すから、一緒に帰ろう」 異様だな、と端から見て思う。それだけの何かがあったんだろう。さて。一戸瀬さんの、ボクへの用はたぶん終わっている。会釈だけしてさっさと帰ろう。 「ごめん兄貴、オレ、今日から日向と一緒に帰るから」 「……え?」 あろうことか、永遠先生と声が重なってしまった。いや、だって、え? 一緒に帰る? しかも今日から? え、いつまで? 「いや、でも、ご迷惑じゃないか? 日向くんだって、いろいろ忙しいだろう?」 永遠先生も混乱しているようだ。よくわからない流れでボクに同意を求めてくる。別に忙しくないし、迷惑でもない。ボクはむしろ――そうだ、一戸瀬さんのことが知りたい。 「今日から、一戸瀬さんと一緒に帰ります。きちんと家までお送りします。これからお世話になります」 ボクも混乱している。よくわからないまま頭を下げた。一戸瀬さんが小さく笑う声が聞こえた。そうやって無邪気にずっと笑ってくれていたら、なんて。 「行くぞ、日向」 軽やかに歩き出す一戸瀬さん。わたわたと追いかける、ボク。途中、あまりにも視線が鋭いまま消えないから、ちらと振り返った。永遠先生の殺意が目に見えるようだ。 「あー、これでしばらくは安泰だー」 「いいのかな、お兄さん、怒ってるけど」 「ヤバイかもなー。日向、兄貴に殺られちゃうかも」 「だから冗談キツイって!」 自分のカバンだけでは体が軽すぎて、逆に足元がおぼつかない。自分の意思で歩けるのは自由だけれど不自由だ。一戸瀬さんが隣にいるせいなのか、気持ちがふわふわして飛んでっちゃいそう。――これが好きってことなのかな。わからない。 「日向、これから毎日だよ。毎日、オレと一緒に帰って」 「……いつまで?」 「オレが飽きるまで」 「何それ」 「じゃあ、日向がオレに飽きるまで」 ボクが一戸瀬さんに飽きる未来なんてあるのかな。一戸瀬さんがボクに飽きる未来、ならまだしも。聞いたことのないメロディー。一戸瀬さんの横顔が楽しそうで、一戸瀬さんの鼻歌は軽やかに空まで飛んでいく。 結局、アレのことは聞けそうにないけど。それでいい。今はただこのメロディーを、忘れないように耳を傾ける。 「日向くん」 呼び方が頑なだなぁ、と思わずにはいられなかった。一戸瀬さんにくん付けはやめるよう言われていたのに。わざとだろう。 昼休み。いつも通りみんなの分のミルクティー――ボクはストレートティーにするけど――を自販機まで買いに行く途中。ボクを呼び止めたのは永遠先生で、その視線の鋭さに気分が悪くなる。 「何ですか?」 昨日の今日で、怒っているのは容易に想像がつく。笑顔を貼りつけて振り返ると、永遠先生もにっこりと胡散臭く笑ってくれた。ああ嫌だなぁ。 「昨日は、藍を家まで送ってくれてありがとう。今日からはもう必要ないから」 「悪いんですけど、一戸瀬さんにいいって言われるまでは一緒に帰ろうと思ってます」 無駄にさわやかな笑顔に、若干腹が立ってくる。一戸瀬さんは永遠先生を迷惑だと思っているようだった。何があったのかは知らないけど、一戸瀬さんの好きにさせてあげればいいのに。 「ちょっとこっちで話せるかな?」 ボクの返事も待たずに永遠先生は、屋上へと続く階段を上っていく。嫌な予感しかしないけど、ボクには拒否権がないから。おとなしく後に続く。 踊り場で立ち止まり、振り返る永遠先生。イケメンではあるけど、ボクはかっこいいと思えない。永遠先生より一戸瀬さんのほうがよっぽど、かっこよく見える。いくら兄妹でも瓜二つではないし、おそらくボクの主観が大いに入っているんだろうけど。 「聞いたよ。日向くん、女の子になりたいんだって?」 嘲るように笑う、その笑顔で、牽制されているのだと悟る。本当にボクが女の子になりたいと思っているなら、くん付けで呼んだりしない。仮にも教育実習生だ。生徒の心を踏みつけるようなこと、先生がしていいとは思えない。 「大変だよね。性同一性障害って言うんだっけ? 生まれてくるときに、性別って選べないから」 「……何が言いたいんですか?」 「君も、心が女の子ならわかるでしょ? 藍のことが心配なんだ。どうせ同じ家に帰るんだし、一緒に帰るのが一番安心っていうか」 「でも一戸瀬さんは、ボクと一緒に帰るって決めました」 一戸瀬さんがボクに飽きるまで。それはもしかしたら今日で終わりかもしれないし、卒業するまで続くかもしれない。不安定で曖昧な約束。でもボクにとっては、大切な約束。 「不安なんだ。だって君は女の子だから。――それとも、君はあれかな?」 近づいてくる永遠先生。必然的に見上げなきゃいけなくなって、同じ男として劣等感がわき上がる。背が高ければいいとも思わないけど、やっぱり、ちょっと羨ましい。 「こんなふうに、迫られたいタイプ?」 耳元でささやかれた言葉を理解する前に、永遠先生の顔が近づいてきて、それで――。ファーストキス。その言葉に憧れがあった。想像をしたこともある。相手はどんな女の子だろう? 同い年か、年下か、年上か。ボクからか、相手からか、どういう流れで? なんて。 すべてがかき消えていく。ファーストキスの相手は男で、年上で、相手からで、意味のわからない流れだった。唇を離して、ボクの反応をうかがってくる永遠先生。本当に意味がわからない。 くるり、踵を返して駆け下りる。早く逃げろ。ヤバイとは聞いていたし、ヤバイと思ってはいたけど、本当にヤバイ。こんなのオカシイ。こんなの、オカシイ。
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