嘘にまみれた世界でボクたちは
3.本当は知りたくない

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「日向」  さんざんな一日だった。永遠先生にキスされて、そのせいでミルクティーを買ってくるのを忘れて、様子が変だったらしく友達に心配されて、一戸瀬さんと目が合ってもそらしてしまって。  最悪を絵に描いたような一日の終わりに、一戸瀬さんは当たり前のようにボクの名前を呼ぶ。安心して、同時に不安にもなる、特別な響きで。 「アイちゃん今日も一戸瀬さんとデートぉ?」 「どっちに転んでもイケメンだしね」 「応援してるよ!」 「じゃあね、アイちゃん」  教室から出て行く友達。他のクラスメートたちもだんだん減っていく。立ち上がらなきゃと思うけど、体が拒んで動けない。  窓際最前列の一戸瀬さんが、教室の真ん中で固まっているボクに近づいてきた。嫌な汗が出て、呼吸もままならない。机の上で握りしめた両手は、何かに怯えるように震えている。  顔を上げられずにいたら、一戸瀬さんは前の席に横向きで座ってボクを見てきた。嘘を許さない黒い瞳が、今だけは優しくボクを映しているように感じる。 「オレでいいなら聞くよ」  何かがあったことを、一戸瀬さんは察している。一戸瀬さん自身、何かがあったからなのか。単純に一戸瀬さんが優しいだけなのか。わからない。一戸瀬さんに話していいのかも、わからない。 「大丈夫だよ」 「大丈夫じゃないときって、大丈夫だと思いたいから大丈夫って言っちゃうんだよな」 「そういうんじゃなくて、本当に大丈夫だから」 「――オレの、兄貴のせい?」  息が詰まりそうだ。否定できない。早く否定しなくちゃ、肯定することになっちゃう。口を開いたけど言葉が出てこなくて、首を横に振ろうとしたけどそれもできなくて、どうすればいいのかわからない。  まだ両手が、机の上で震えている。ボクはこんなにも弱かったのか。一戸瀬さんのきれいな指が伸びてきて、そっとボクの拳を包んだ。優しくて泣きそうになる。 「ごめん、兄貴、昔からそうで。オレが誰かと仲よくすると、すぐ邪魔してくるんだ。相手が男なら男は危険だ、って。相手が女なら女は非力だ、って」  ボクは一応、女の子に分類されたのか。頑なに日向くんって呼んでくるけど。女の子だということにしたから、永遠先生は躊躇いなく、男同士なのに。 「キス、された」  現実が口からこぼれ出た。一戸瀬さんと目が合う。黒い瞳が悲しい。きっと悲しいという感情は、こういう色をしている。 「嫌だったよな。ごめんな」 「一戸瀬さんが謝ることじゃない」 「オレのせいだよ」 「たいしたことじゃないよ。ちょっとしたイタズラっていうか」 「――たいしたことだったから、日向は今、泣いてるんじゃないの?」  視界がぼやけて、こぼれたのが涙だと理解する。恥ずかしい。女の子の前で泣いている。一戸瀬さんの前で、泣いている。 「たいしたことかどうかは、日向が決めなよ」  あのキスを、たいしたことだと認めるのは怖い。自分の人生に事件が起きたと認めることになるから。  一戸瀬さんは、認めることに躊躇いはなかったのだろうか。自分の人生に何かが起きたのだと、認めるのは怖くなかったのか。 「オレも、自分で決めたよ。たいしたことだったって」  大切な話をしようとしている。アレの話を、しようとしている。それがわかって逃げ出したくなるけど、一戸瀬さんは逃げずに聞いてくれたから。ボクもちゃんと聞かなきゃ。 「脅迫、監禁、――痴漢。言葉にするとそんな感じ、オレがされたことは」  ボクの手を握る力が少し強くなった。クールな物言いとは違う、たぶん感情は揺らいでいる。 「母親は、よかったって言ったよ。大事には至らなくてよかった、って。レイプ? とか、殺されたりとか、しなかったから。母親的にはまあ、セーフだったんだろうね」  一戸瀬さんのお母さんの気持ちもわかる。生きて帰ってきてくれた、それだけでよかったんだろう。でも、一戸瀬さんの気持ちは? 一戸瀬さんの恐怖は、悲しみは? 「犯人、は」 「まだ捕まってない。時々、調べてみるけどさ。似たような事件がバカみたいに出てくるだけで。あいつら全員死ねばいいのに」  一戸瀬さんの手が震えている。とっさに拳をほどいて、ボクの手に重なる一戸瀬さんの手を包んだ。小さな手。ぼくのしらないきみのいたみ。  本当は知りたくなかった。知ったらきっと悲しくなるから。悲しみに包まれて動けなくなるから。一戸瀬さんの目から涙がこぼれた。なんて美しい生命のカケラだろう。一戸瀬さんは、生きている。 「だから、兄貴が心配するのもわかる。でも心配されるたびにオレは、あの日に引き戻される。思い出したくないのに思い出しちゃう。小二の、まだ小さかった藍ちゃんに戻るんだ。それが嫌で」 「ボクが君を守る」  息をするみたいに口から言葉が出てきた。昔、どこかで聞いたセリフ。胡散臭くて薄っぺらくて、好きになれないセリフ。だけどボクは言いたかった。一戸瀬さんに言いたかった。もし、守れなくても。守りたいという意思だけは伝えたくて。  一戸瀬さんが笑う。その笑顔を永遠にできたら、なんて。永遠とかないのに。――永遠先生と同じ漢字でちょっと嫌だ。ずっと、そう、ずっとだ。一戸瀬さんがずっと笑っていてくれたら。 「日向は、オレのことが好き?」 「……わからない」 「オレは好きだよ、日向のこと。だって日向は、相手が嫌がることをしない。自分が我慢して、相手の望みに応える。だろ?」  それはいいことなのか。単純に、自分がないってことじゃないのかな。自分がなさすぎて結果、嘘をついてるのは。よくないことなんじゃないか。  一戸瀬さんのもう片方の手が伸びてきて、ボクの手に重なる。ボク、一戸瀬さん、ボク、一戸瀬さんの順番で積み重なった手。見つめていたら影ができて、一戸瀬さんの顔が近くて。 「いい?」  どういう意味かわかって、でもすぐ判断ができなくて、少し間を置いて、それから頷いた。唇が重なる。永遠先生のときと同じで、同じじゃない。  もっと優しくて、愛おしくて、ずっと抱きしめていたくなるような。終わらないでほしい一瞬。 「おはよーアイちゃん、見たよアレ!」 「アイちゃんってば意外とやるじゃーん」 「やるって言うか、やられたって言うか?」 「一戸瀬さんってイケメンだよね」  朝。いつも通り教室に入ったけど、いつもとは違う友達の絡みに戸惑う。何の話をしているのかサッパリだし、そもそもやるとかやらないとか何――はてなマークしか浮かばないボクに、友達は笑顔でスマホの画面を見せてくる。時間が止まってしまったような気がした。 「な、んで」 「他のクラスの子から回ってきてー」 「ビッグカップル爆誕! ってね」 「オネエのアイちゃんと男の娘の一戸瀬さん、ピッタリじゃん!」 「新しい時代来たーって感じ」  かろうじて声になった疑問に、友達は軽やかに答える。たいしたことじゃない。そう、友達にとっては。ボクと一戸瀬さんの大切な一瞬が、たいしたことじゃない。ちょっとした話題、面白いニュース、そのうち忘れ去られるような。たいしたことじゃない。  誰が撮ったのか、と考えて。犯人を捜す意味があるのか、と思い直す。恨むべきは犯人か、それを拡散した他のクラスの子か。それともボクがオネエのふりをしていること自体が、そもそもの間違いなのか。 「あっ、一戸瀬さんおっはよー!」 「見たよぉ、アイちゃんとの」  キスシーン、と続くはずだったのだろう。一戸瀬さんにスマホを見せようとする友達の手を取って、力ずくで引き留める。ぱちぱち、瞬きする一戸瀬さん。その黒い瞳は不思議そうにボクを見ている。 「痛いよアイちゃん……何?」  友達に睨まれて、慌てて握っていた手を放した。ボクの力が強すぎたのか、もう片方の手でさすっている。そうだ、ボクは男だった。 「ごめん」  ひとまず謝ったけど友達は気分を害したようで、睨むだけ睨んで自分の席へと戻った。教室に入ってきたばかりの一戸瀬さんと、向かい合う形になる。何か言わなきゃ。 「おはよう、一戸瀬さん」 「……おう。さっきの何?」 「何でもないよ」  ほとんどのクラスメートたちにあの写真が出回っているのだろう。冷やかすような声が、笑い声が、聞こえてきて。居たたまれなくなる。  一戸瀬さんに背を向けて自分の席に向かう。集まる視線は明らかに面白がっている。見世物じゃない。少なくとも一戸瀬さんは、ボクたちのあの一瞬は。見世物なんかじゃない。  チャイムが鳴った。イライラは止まらない。何が? 友達が悪い? クラスメートが悪い? ――違う。そんなことにしか興味を持てない世界が。そんなことしか面白がれない世界が。そうだ、きっとこの世界自体が。  世界を構成するのは人間だ。人間を構成するのは世界だ。こんなしょうもない世界で、だから、一戸瀬さんだけが眩しい。 「女ぶったって結局、中身は男なんだよなー」 「気持ち悪いと思ってたんだよ」 「女のふりして女に近づいて? やるだけやって? 普通の男よりよっぽど男じゃん」 「一戸瀬さんカワイソー」  昼休み、教室のあちこちから飛んでくる罵声。ボクだって気持ち悪いと思ってた。流されるままに『女子になりたい男子』を演じていたら、引き返せなくなっていて。……ああ。今日もミルクティー買いに行かなきゃ。 「日向、一緒に食べよう」  立ち上がったボクの前に、学ラン姿の一戸瀬さん。かっこよくて、眩しくて、憧れて、だからこそ。一戸瀬さんがボクのせいで冷やかされるのは耐えられない。ヒューヒュー、低俗な冷やかしが飛んでくる。 「ごめん、無理」  一戸瀬さんを通り過ぎる。一戸瀬さんを傷つけたことも自覚しながら。教室を出る前、いつも通り「アイちゃん」と友達に呼ばれた。そのあだ名が発端でもあるんだよな、なんて思う。 「男子の言うことなんて気にしちゃダメだよ」 「うちらは何があってもアイちゃんの味方だから!」  ――味方、か。まるで敵がいるって言われてるみたいだ。にっこり、愛想よく笑う。嘘に慣れすぎたせいでこんな嘘まで得意になってしまった。 「ミルクティー買ってくるね」  本当はわかってる。ボクが行く必要なんてない。自分のものぐらい自分で買いに行けばいい。ボクがみんなの分をまとめて買う、理由なんてない。  嘘だ。理由はある。ボクが一人になりたいから。嘘をつくのがつらいから。一人なら、誰かに嘘をつく必要がないから。ボクは、自分の嘘から逃げるために。 「日向くん」  誰かにぶつかった。俯いて歩いたせいで。顔を上げたら永遠先生がいた。ああ、逃げてきたのに逃げ場がない。 「大丈夫? 顔色、よくないよ?」 「……大丈夫です」  大丈夫じゃないのに大丈夫と言ってしまう。一戸瀬さんを思い出して苦しくなる。一戸瀬さんを傷つけたかったわけじゃない。本当は、守りたいのに。 「見たよ、これ」  永遠先生を通り過ぎようとしたけど、スマホの画面で邪魔される。ボクと一戸瀬さんの、大切な一瞬。どうしてみんな他人の大切なものを平気でぶち壊せるんだろう。 「やっぱり日向くん、藍のことそういう目で見てたんだね」  そういう目って、どういう目だ。ボクに――生徒にキスしておきながら。思わず睨むけど、冷ややかに見下ろされて息が詰まる。 「君に藍は渡さない。藍は、僕のものだ」

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