葉桜の下
青い春、と書いて『青春』
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 こんなはずじゃなかったんだ、僕の人生は。  仕事が終わって地元の駅で降り、家とは反対方向へと進んでいた。運河沿いの遊歩道に生温い風が吹いて、うっすらと潮の匂いが立ちのぼって来る。海が近いせいだ。慣れた地元の匂いだけど、最近はやたらと鼻にまとわりついて鬱陶しい。街路樹の桜も既に葉ばかりになっている。この桜は今年、いつ咲いていつ終わったのだろう。僕にはここ一か月ほどの記憶があまりない。  三月の終わりに娘が生まれた。唇の形が僕にそっくりな宝物だ。  しかし問題は娘の誕生から始まった。はじめの一か月は母子をやたらと連れ出さないほうが良いという理由で、嫁娘はずっと部屋にいて、花見もできなかった。僕は一日くらい大丈夫じゃないかと言ったけれど、まだ肌寒いし人も多いからと却下された。  その上、会社の花見も参加できなかった。飲み会なども控えてほしいと言われていたし、嫁さんの両親が孫を見に来る日と重なったからだ。  ……こんなに頑張っているんだから、せめて花見くらいは行きたかった。  嫁さんは娘と添い乳と称して寝てばかり。 『産後一か月は家事とかしないのよ、赤ちゃんのお世話だけ。あとはあんたがしなさい』  随分元気そうなのにお義母さんだけじゃなく母さんまでもこんなふうに擁護する。今や家じゅうが散らかり放題。  食事も総菜屋で僕が毎日買って帰る。僕だけならラーメン屋でも定食屋でもいいのに、それだと嫁さんの分がないとなる。  僕だって娘のため、嫁さんのために働いてきてるんだ。家に帰ったら片付いた部屋であったかい夕飯が待っていてほしいっていうささやかな願いくらい、叶ったっていいんじゃないかと思う。  勿論、嫁さんがしんどいならそんなこと言っていられないのは承知だ。だけど現実はそうじゃなくて、顔色もいいし食欲もあって、どこも問題がなさそうなのが問題なんだ。  なにも高級フレンチのフルコースが食べたいとかじゃない。  丼ものに味噌汁とかでいいんだ。  海老天なんて贅沢は言わない。かき揚げうどん一杯だっていい。  ただ、きれいな部屋と出来立ての温かいメシがそこにあればいいだけなんだ。  それなのに、だ。  オムツや総菜のパックで嵩むゴミも、やれコレはこっち、それはあっちと布団から指図されて、僕が分別をして捨てに行く。  休みの日には自分が一日のうちたった6時間しか使っていない布団を、ほぼ24時間使ってる嫁さんの代わりにベランダへ出して、娘のオムツ替えや沐浴も僕がやる。  自分で言うのもなんだけど、相当イクメンだと思う。沐浴なんかは教えてもらった助産師に『今までやったパパで一番上手かも』と言われたくらいだ。なのに、嫁さんときたら…… 『健ちゃん、お義母さんが日曜に来たいって電話よこしたから、それまでに部屋片づけておいてね』 『くるんなら母さんに片してもらえばいいよ、気ぃ遣うなって』 『そういうわけにいかないでしょ、健ちゃん、あたしのママが来るときは片づけるじゃない。あたしの気持ちも考えてよね』 『それなら自分で片づければいいだろ。産後一か月はって言ったってもうすっかり元気だろ』 『あたしもよくわかんないけど、この期間にいつも通りにしちゃうと後で体壊すんだって。お義母さんだって言ってたでしょ』  ……思い出すだけで腹が立つ。『全日本もう帰りたくない協会』発足だよまったく。  15分程歩いて公園に着いてはみたが、毎年桜の季節に飾られているはずの紅白幕と提灯は片付けられた後だった。ただぽっかりと街明かりの無い空間が穴のようにあいている。せめて花見の名残りでも味わえればと思って来たというのに、がらんとしたつまらない光景を目の当たりにして余計にやさぐれるだけだった。  仕方がない、嫁さんに食べたい総菜を訊こう、とILNEのアイコンに指を伸ばしかけたその時、聞き覚えのある声で名前を呼ばれた。 「健二くん?」  振り向くと、そこには見慣れた懐かしい姿があった。 「恭子」 「びっくりぃー! 地元戻って一発目に出くわした知り合いが健二くんだなんて、あたしたちやっぱり縁があるのかもねぇ」 「戻ってきた?」 「うん。リコン、しちゃった」  そう言ってまるでアニメみたいにてへへ、と笑った顔が昔のままで、心の中が急にすっきりと晴れたような気分になった。しかし、離婚とは穏やかじゃないな。 「何で、あんなに仲良かったじゃん。僕と別れてまで結婚したのにさ」 「あは、そうだよね、ホント何でだろうね。あたしの見る目がなかったってコトかなぁ」 「その言い方だと浮気でもされた?」 「ううん、そういうわけじゃないんだけど……あんな人だと思わなかったなぁ、って」 「ああ! その問題、今まさに僕もなんだよ。……まったく、なんで結婚前にわからなかったかなぁ」  ふいに、ひっつめお団子頭ですっぴん部屋着の嫁さんが脳裏に浮かんだ。目の前の恭子とは大違いのだらしない姿に、ほとほとうんざりする。 「あれれ? それはほっとけないねぇ。ねえ、時間ある? 場所かえない?」  恭子がくいっ、と顔の前でグラスを傾けるような仕草をしてみせた。   「ん? ああ、今日は帰らないと。急に予定入れると怒られるんだよ、付き合いとかもあるのに」 「束縛系かぁ、シンドイねぇ。それじゃ来週あたりどう?」 「オッケイ。ケータイ変わってないから、メールして」 「わかった。ケータイは見たりしないの? 奥さん」 「そういうのはないね。でも別にみられても平気だよ。確かにモトカノと連絡とりあってるってのはアレだけど、そんな話してないから普通に近所の幼馴染って話すし」 「なーるほどね。キミもオトナになったねぇ」 「なんだよそれ」  こうしてふざけあうのも、あの頃に戻ったようで心地いい。時間的にはもう少し話せるかと思ったが、恭子はもう少し散歩してく、と手を振って、葉桜が風にそよぐ遊歩道に消えていった。 「さて、と」 今度こそILNE、と思ったら嫁さんからの通知が。 {今どこらへん?)  5分前か。ならセーフだな。あまり時間を空けると今度は電話がかかって来る。 {駅) {あ、じゃあそのまま少し待ってて。お母さんがもうちょっとで着くって) {え、急にどうしたの?) {孫の顔が見たいんじゃない?) {わかった。何か買うものある?) {んー、お母さんがお土産とおかず持って来るから、合流したら電話してー) {はいはい)  なんだよ、自分は僕のほうの家族には急に来るなとか言うくせに、自分の母親は僕にアポなしって、ダブスタにも程があるだろ。  駅からは義母と肩を並べて歩くというのに、走っても走っても苛立つ心がおさまらない。義母の到着まで時間がない。なんとかしなければ、と自販機の前で立ち止まると、ポケットの中でスマホが短く振動した。 「お、早いな」  通知は恭子からのメールだった。さっきまであんなにざらざらしていた心が一気になめらかになっていくのがわかった。明るくて、人気者だった恭子と過ごした青春時代が、自分の中で色褪せるどころか鮮やかさを増して蘇ってくるのを感じる。今度は逆にこのハイな気持ちを鎮めなければ、と冷えたブラックコーヒーを一気に飲み干し、僕はまた道を急ぐことにした。
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