木蓮ひらり
あの日 3

作品に栞をはさむには、
ログイン または 会員登録 をする必要があります。

 中二の春のあの日のことを、あたしは今でも覚えている。  うちから中学校へ通じる道の途中に木蓮の家はある。だから中学時代の三年間は、あたしは木蓮と二人で登校していた。  あの日あたしはいつものように、窓の下から木蓮を呼んだ。朝はインターフォンを使わないようにしている。木蓮の両親は昼近くまで寝ているからだ。この辺りではそういう家はめずらしくない。  木蓮は「おはよう。ちょっと待ってね」と言ったと思う。  そしていつもより出てくるのが遅かったと思う。  おさげ髪の木蓮がやっと出てきて、あたしは「遅いよ」なんて文句を言いながら歩き出した。  歩き始めて間もなく「ムーランルージュ」の重い扉が開く音がして、あたしは振り返った。  木蓮のお父さんが立っていた。  襟元をくつろげたよれよれのシャツを着ていて、赤黒い顔で目を血走らせているのが遠目にもわかった。  「木蓮!」  おじさんが叫んだ。木蓮は振り返らない。 「木蓮!」  おじさんがもう一度大声で呼んだ。木蓮は応えない。  あたしが立ち止まって「お父さんが呼んでるよ」って言っても、木蓮はどこか遠いところを見つめて歩き続けた。  おじさんは走ってきて乱暴に木蓮の腕を取った。 「あんたは先に行きなさい」  おじさんはあたしにそう言って、木蓮を引きずって家へと引き返した。  あたしはただ見ていた。  その頃のあたしは、親というものはどこの親でも子どもよりも正しいものだと思っていた。木蓮が何か叱られるようなことをしたのだろうと思った。ちょっとお説教された後、始業前には登校してくるのだろうと。  あたしはひとりで登校して、教室で木蓮を待った。  木蓮は病欠になっていた。  あたしは担任に言われて、プリントを届けるために下校途中に木蓮の家に寄った。  インターフォンを鳴らしたけれど、誰も出なかった。あたしはプリント類をポストに入れて帰宅した。  次の日の朝、自宅から出てきた木蓮を見て驚いた。  艶やかなおさげ髪がなくなっていた。  うちの学校に、ここまで髪の短い女子はいないだろう。男の子みたいなベリーショートだ。長身が更に増したように感じられる。  その髪型は端正な顔立ちに似合っていないこともない。だけどあたしの心の中で、しっくりこない気がした。 「髪、切ったんだ……」  あたしがそう言うと、木蓮は「うん」と短く答えた。  「どうして?」とあたしは訊いた。  「わかんない」と木蓮は答えた。  笑っても怒ってもいない。 「頭が軽い」  木蓮はそう言って頭をぶんぶん振ってみせた。  木蓮はいつものあどけない顔で、前の日の授業や宿題のことなんかを尋ねてきた。あたしはたどたどしくそれに答えた。  その後は無言で歩きながら、あたしは木蓮のお父さんの血走った目を思い出していた。  木蓮のお父さんの噂は、その前からいろいろ聞いていた。  飲み会の後、酔っ払ったまま車を運転して友達を家まで送っている途中で、突然怒り出して、友達を農道に放り出して帰ってきたとか、駐車違反を取り締まった警官に掴みかかって、一晩留置場に入れられたとか、夜中に半裸の木蓮のお母さんを玄関から外に引きずり出して殴っていたとか。  あたしは信じていなかった。  噂好きの田舎の人たちが話を大きくしているのだと思っていた。  そういうことはテレビのニュースやワイドショーの中だけの話で、身近にいる大人がそんなことをするはずはないのだと。  でも、木蓮の腕を掴んで引きずっていったおじさんのあの目つきを思い出すと、あり得ないことではないような気もした。  数日後、美容院に行ってこんな話を聞いた。  こないだ木蓮ちゃん来たよ。ショートにしたの、見た?可愛くなってたでしょ。  ここにくる前に自分で髪の毛切ったらしいんだけどさ、すごいギザギザ。凄まじい髪型になっちゃったから、整えてくださいって。  びっくりしたよー。パンクな感じにしたいの?って思わず訊いちゃった。何かあったのかなあ。今どきの子も失恋で髪切ったりする?……  やっぱり、おじさんがやったんだ。あたしは確信した。  ばかだな、木蓮。  そんなときに近所の馴染みの美容院でカットしてもらうなんて。  こんなおしゃべりな美容師がいる店で。  あたしは、もっと、ばかだったけど。  

応援コメント
0 / 500

コメントはまだありません