リストの交響詩
リストの交響詩全集を聴きました

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Symphonic Poem(交響詩)は、リストが創始した形式で、ドヴォルザークやスメタナ、フランクやドビュッシー、リヒャルト・シュトラウスなどなどを経て、シベリウスまで作り続けられたわけで、個人が一つの音楽ジャンルをここまで確立した例は寡聞にして知りません。  リストの娘婿のヴァーグナーの創始した楽劇がRシュトラウスくらいしか見るべき後継者がなく、しかも途中からオペラに戻っちゃったことと比較しても大したもんです。あまりそういうことは評価されないのかもしれませんが、わたしは音楽は目で見えず、手で触れないだけに形式は、内容と同じくらい大事だと思っています。  交響詩なんて、交響曲に標題をつけて短くしたようなもの、本質的にベルリオーズの幻想交響曲などと同じようなものだと考える向きもあるでしょう。しかし、ずっとリストの交響詩を聴いていると違うことに気づくのではないでしょうか。  交響曲の骨格がソナタ形式であることは異論がないと思いますし、それだけに古典派的な要素を持っているわけですが、20世紀まで命脈を保つことができたのは興行的理由が大きかったと思います。大きなホールで大衆を聴衆として取り込むことができたわけです。  この背景的事情は交響詩も同じ、というより更に推し進めたと言えるでしょう。リストの交響詩は音楽以外の、神話や文学に触発された感情とか自分の見解によって音楽を展開していくわけで、主情的なロマン派の申し子のような存在です。ですから、主題提示、展開、再現といったお決まりのソナタ形式の作品より、はるかに刺激的です。  つまり交響詩は音楽の大衆化の申し子のような存在です。……急いで言っておきますが、わたしは大衆的な芸術が悪いとか、劣るとかは全く思っていません。逆に人気があるものが優れているとも思っていませんが。  交響詩といっても当然のことながら人それぞれで、Rシュトラウスなどの場合はどうも音画Symphonic Pictureになっている曲が多いように思うのですが、リストは良かれ悪しかれ考えすぎの人ですから、もうちょっと複雑なものになっています。

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