瘋癲凡人富士日記
狂人日記日記

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 日記が好きだ。蜻蛉日記から本当はちがうんだ日記まで、古今東西日記と名のつくものはしめしめと覗き見たくなる。商業的に着色された作品だと知りながら「日記」と冠されるだけで、本来ならば目にするはずのないごく私的な内容を盗み見てしまうという背徳にせっつかされて手を伸ばしてしまうのだ。トンチンカンなシチュエーションのアダルトコンテンツが人気を博すのと同じで、これはリアルな日記ではなくあくまで「そういう風」なフェイクだらけの商品と知っていてもなお、一人暮らしアパートの音姫くらい使い所のない「背徳」が俺の出番だとばかりにしゃしゃりでてきて、どこか下衆な表情を浮かべながら表紙を開く。  そうした私なりの日記の嗜み方に、ごく稀にピンポイントで寄り添ってくれる作品がある。知らないうちに気付いたら同じ布団に入っていたというくらい、私にとってもっとも寄り添い度の高かった作品、それが色川武大「狂人日記」だ。幻視や幻聴、夢遊病的症状に悩まされる主人公の身辺を描くこの作品には、途中、少年期の回想としてすもうカードゲームに熱中するさまが描かれる。彼は元来のすもう好きが高じて、すもうをモチーフにしたオリジナルのカードゲームを創作し、世界にたったひとつしかないゲームに足超えて腰超えて肩超えて頭超えて身体全部でどっぷりはまっていく。  居た。確かに、クラスにこういう男子が居た。幼少期、カードゲームバトルを扱った漫画作品がとんでもない旋風を巻き起こしていたことから、自分の名前からとって「ゆうき王」だとか「たくや王」といった名前をつけ、引きちぎったルーズリーフにイラストと攻撃力や防御力のパラメータを書きつけ、オリジナルカードゲームとしてたしなむクラスメイトがいたのだ。彼らは休み時間ごとに仲間うちの世界へそそくさと戻っては、外の世界にいる我々には検討がつかないほどに盛り上がっていた。 そのとき、彼らは決まってうかつには立ち入れない独特な空気をまとっていた。しかし私は彼らがオープンマインドであろうとなかろうと、一定の距離を保って彼らを見つめることしかできなかった。それは間違いなく、敬意があったからだ。 「狂人日記」では後半、すもうカードゲームを回想したのち、大人になった今でもときおりあのゲームで遊びたくなるので困る、という旨を告白するシーンがあるのだが、このページを読むとどういう理屈か知らないがいつも涙ぐんでしまう。たまらなくなる。そして身体の内側、おそらく心といわれる部分が鳴る。キュン、とか、トクン、ではなくキュインキュイン、と。京楽の台でもないのに鳴るのだ。CR色川武大がアツイ展開になってしまうのだ。  私は、もう、この、狂人日記のこの、すもうカードゲームのこの一連が本当に本当に好きだ。大好きだ。口に入れたい。毎日食べたい。飽きずに食べられると思う。  自分の作り上げた世界に没頭し、熱中のど真ん中にいるあいだだけでなく時間が経ってからも閉じられた世界を愛おしく思う、その姿勢にとんでもなく憧れてしまう。羨ましいと思う。ずるいとさえ思う。かつてのクラスメイトたちも同じなのだろうか。サラリーマンとしてあくせく働くさなか、上司の怒声と取引先の理不尽、帰宅後の嫁の不機嫌の相乗効果に押しつぶされそうになりながら「ハア、ゆうき王やりてー……」とため息をつく日もあるのだろうか。そんなの、想像するだけでキュインキュインが止まらないではないか。 「狂人日記」によって学生時代の憧れと敬意を呼び覚ました私は、十年来の熱い感情のままオリジナルカードゲーム作成に興じてみることにした。小学生が休み時間に行う暇つぶしとは訳が違う。こちらは本気だ。ルビはガチだ。友人のデザイナーに依頼して枠組みを作ってもらい、イラストや文言を書き起こし、パソコンに取り込んでフォーマットに流し込んだのち印刷、さらにラミネーターで綺麗に仕上げた。そして完成したカードは、当時バンド活動を行っていたために「バンドのライブ音源盤の初回特典」として封入した。手にとってくれた友人の第一声は「なんだこれ」であった。  ともかくこうして「日記」の盗み見に興じていた私の中の背徳は、死角から憧れの力に焚きつけられ、訳のわからない闇ゲームを作り出すまでに成長した。他者の日記を盗み見なければ起こるはずのなかった化学反応だ。そして今、私の創作娯楽であるCR色川武大も、脳内で大当たりを出し続けている。

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