瘋癲凡人富士日記
今一番欲しいもの、原民喜ボタン

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 死が怖いというのと、死に至るまでの道程が怖いというのはまったく別の話であるのだけれど、多くの場面で混合されている。それで言えば私は、死を怖いとは思わない。  この世にはびこるありとあらゆる問題や不幸がもういっさいがっさい解決しまっせ、ただしその代償として命を頂きまっせ今この瞬間にスパンと死んでもらいまっせ、というボタンがあったなら私は押す。死に至るまでの道程を経験せずに済み、また世の中に多少なりともよい変化を与えられるとあれば前のめりに死へ飛び込んでしまう。「ひとつだけ願いがあるとしたら、平和な世界で、たまには私のことも思い出してほしい……かな」とイキり散らかした遺言を残したりもして、下品にも正義の死の味を楽しみながら潔く死ぬ。もしかしたらその瞬間に「私にはまだやり残したことがあった」と思い出すかもしれないが、それが「だからまだ生きたい」という強い意志にはつながらないし、来世で達成できたら万々歳だとまだ見ぬ来世に思いを馳せてしまう。そもそも現時点でやり残したことなど思いつかないのだから、いまわの際でやり残したことを思い出したとしても思いつき程度でしかなく、心残りというにはやや頼りない。  しかし死に至るまでの道程は怖い。なによりも怖い。前述のボタンを押してから死に至るまで一年かかり、その時間の中であなたはじんわりじんわり身体が動かなくなりじんわりじんわり死んでいきますよと言われたなら正直ひるむ。というか、もうボタンは押せなくなる。イキり散らかした遺言書を破り捨て、ついでに正義感も捨ててすぐさま両手をあげて「無理でーす!」と表明してしまう。なにが、どう、なぜ、怖いかについては、私の言葉ではまだ明確にできない。しかし、言葉に遺している人もいる。たとえば原民喜である。  1945年8月の被爆体験をもとにした「原爆小説」の書き手としても知られる原民喜だが、仮にその経験をしていなかったとしても命について描き続ける作家であったのでは、と思うほどに、死にまつわる描写がすさまじい。中でも「美しき死の岸に」は私が、私たちが恐れているもの、見たくないもののほとんどすべてを書ききっている。  「美しき死の岸に」では、病に冒されていく妻の姿が描かれている。民喜の妻は糖尿病と肺結核で亡くなっているが、発症から亡くなるまでの五年間に見つめたさまざまなものを、民喜はこぼさないように描いているのだと思う。目をそらしたくなるような光景を焼き付け、言語に変換してなくさないよう書きつけている。読者は文字を追っていくうち、見ないようにしていた景色に囲い込まれてしまう。  大切な人が死に向かっているとき、背中を押すような真似をしたいと思う人はいないだろう。しかしその人が苦しんでいるのなら話は変わってくる。このまま苦しみ続けながら、とにかくただ生きている時間を一秒でも長く引き延ばすことに意味はあるのか、疑問を覚えてしまう。こういうときボタンがあったらいい。ボタンのせいであの人は死んでしまったのだ、と思えたらどれほど楽だろうか。私は死んでほしくなかったのだけれど、ボタンのせいで仕方なく、どうしても抗えずに、しかし病と違って苦しむこともなくその瞬間を迎えられたのだからその点は幸せだったのかもしれない、などと無責任に思えたのならどれほど。  自分自身が死の岸にたどり着く瞬間を想像する。誰かの、何かのせいにしようとボタンを探して動き回る、美しさとかけ離れた状態かもしれないが、それはそれでいいだろう。

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