ジーンズを身に着けたハルを見たとき、ユカの胸の奥がシンと冷えていった。もう行くのかもしれない。そう思って、泣き出しそうな気分になった。だからシャツを取り上げて、ハルをこの部屋に閉じ込めた。音がする間、きっとハルは出て行けない。そんなことを、思いながら。 「正真正銘のお嬢ってやつか?」 皮肉まじりに言ってテディをベッドに放るハルの言葉を、黙ったまま聞き流して、ユカはハルの腰にそって、ベッドに横たわった。ハルの腰を抱えて丸くなる、猫のように。 そして、ハルの腕に触れた。ハルの二の腕には、メタリックな色調の青い蝶が、舞っている。 「蝶?」 「あぁ? そう」 ユカの手を追って、ハルもその蝶を見る。蜜を吸うようにハルの腕にとまる、深い瑠璃色の蝶を、ユカは人差し指でそっと辿る。 ずっと、ユカはハルの蝶を見つめていた。痛くて、気が遠くなりそうなときも、ずっと。 「なんていう蝶?」 「知らない」 そっけなく言いながら、ハルは腰をかがめて、灰皿代わりの容器を足元に引き寄せる。 「天国にいる蝶」 「天国?」 「うん。天国の青い蝶」 ハルの言葉はなんだか不思議で、でも、その言葉の意味を知りたいとは思わなかった。ただその蝶は天国にいるんだと、そう思った。 ユカに背中を向けたまま、煙草に火をつけるハルは、解けきらない緊張に苛立っているように見えた。隣の部屋から聞こえる物音に敏感に反応する瞳は、この場から逃げ出すチャンスを探っているように見える。 「ハル、傷の話、ききたい?」 ハルの気を引きたくて、ハルの苛立ちをなんとか宥めたくて、ユカが言う。無機質な瞳がちらっと動いて、ユカの指先に落とされる。 「別に。もういい」 隣の部屋に神経を集中するのを邪魔されて、ハルは少し怒ったような声を出す。 その声を、怖いと思う。けれど今は、ハルが出て行ってしまうことのほうが、もっと怖かった。このままでは、物音が消えた途端にハルが出て行ってしまいそうで、それがなによりも怖い。
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