パピヨン
第十九話

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 どろりとした液体に、沈みこんだような気分だった。  どのくらい黙っていたのか、よくわからなかった。ほんの数分が、途方もなく長く感じられた。  沈黙を破ったのは、ハルだった。 「その人、生きてんの?」  もう声にする力を失くしていたユカが、首をゆるく振って答える。 「おまえだけ、助かったの?」  聞きなれた問いかけは、いつも忌々しげに、ユカに向かって投げつけられた言葉と同じだった。けれどハルのそれは、なんだか違っていた。それが不思議で、思わず顔を上げたユカの瞳が、驚きに瞠られる。  目が合った瞬間、ハルが、びっくりするくらい綺麗に、にっこりと笑った。そして、ぽんとユカの頭に手を置いて、くしゃりとまぜる。 「助かって良かったな、ユカ」  どくんと、ユカの視界が揺れた。  もう何年も、こんなふうにユカを呼ぶ人はいなくて、ユカは自分の名前を忘れてしまいそうだった。だから、ハルの声で聞こえてきた自分の名前が、信じられなかった。嘘みたいだと、思った。  大きく瞳を瞠るユカにテディを持たせると、ハルは灰皿代わりの容器を持って、ベランダに歩いていく。ぎゅっとテディを抱きしめると、そのふんわりとした優しさに、涙が零れ落ちた。  ―― 助かって良かったな。  ハルの声は白い朝の光の中で、幾度となくユカの胸で繰り返された。  ―― 助かって良かったな。  自分が此処にいることを、生まれて初めて許されたような気がした。  ―― ユカ。  ぽろぽろと零れていく涙が、テディに吸い込まれていく。テディの真っ黒な瞳が、じっとユカに向けられる。優しい気だるさが、ユカの全てを、暖かく包み込んでいった。

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