パピヨン
第十話

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 瀟洒なマンションの最上階に、ユカの部屋はあった。  重々しく開く鉄の扉と、広い階段。古い洋画に出てくるような、手開きのエレベーターに乗って、ユカは鍵をかけずに出た部屋に入っていく。細い廊下を数歩進むと、薄い壁に遮られたL字型のキッチンと広々としたリビングがある。造り付けの家具以外、なにひとつ置かれていないそれらの部屋は、まるでモデルルームのようで、人の匂いを感じさせない。  ユカが、リビングの奥にある、両開きの扉に手をかける。その向こうに、辛うじて人の気配のする部屋があった。それでも置かれているのは大きなベッドとテレビだけ。寝乱れたベッドの真ん中には、茶色のテディベアが、ぽつねんと座っている。  テディを抱き上げ「ただいま」と言うユカの背中を素通りして、ハルはベランダに続く窓を開け放つ。ひゅんと吹き込んでくる夜の風が、部屋に詰まった重苦しい空気を洗い流していく。ひんやりと心地良い風が、ユカの長い髪を梳いて、頬を撫でていく。  風が気持ち良いなんて、初めて知った。ユカは、窓を開けたこともなかった。 「ラーメン、くれる?」  視線を外に向けたまま問いかけるハルに、ユカはテディをベッドに放り出し、通り過ぎたキッチンまで引き返す。収納棚を開け、両手いっぱいにカップラーメンを抱えて、ベッドルームに戻ってくる。 「どれがいい?」  いくつかのラーメンが、コロコロと床に散らばる。 「全部食べていいよ」  ユカの言葉に、ハルの表情が変わった。 「なんだよそれ。売るくらいあるじゃん」  そう言って、可笑しそうに、笑い出す。  パンと何かが、弾け飛んだ。その笑顔を見た瞬間、ユカの中にあった張り詰められていた糸が、ぷつんと切れた。ハルは、笑わない人だと思っていた。口の端だけの、造られた笑顔しか持っていない人だと思っていた。その思い込みが、ぱっと散った。ハルの笑顔が、きらきらと眩しくて、涙が出そうになる。

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