おれのちちおやはNBAでかつやくしていたにほんじんせんしゅ。 ははおやはちちのしょぞくしていたちーむのあどばいざー。 そんなすぽーつえりーとふたりのあいだにうまれたのがおれだった。 だが、おれにはどうやらふたりのさいのうはまったくひきつがれていないようだった。 うんどうしんけいじしんがわるかったわけじゃない。むしろうんどうはだいとくいだった。 でも、それがことばすけっとぼーる、というよりきゅうぎとなるとはなしがちがった。 おれはぼーるあつかいにたいするせんすがとぼしかったのだ。 びでおにのこっていたちちのようにてにぼーるがすいついてるかのような、ぷれいをおっこなえなかった。ははがおしえてくれたどりぶるでのぬきかたをじっせんすることができなかった。 おれはくやしかった。せかいにもつうようしたほこりのりょうしんのなまえをおれがおとしめてしまったことに。 そからすこししておれはすぽーつのめいもんおとのみやがくえんににゅうがく、そのままばすけぶににゅうっぶした。 それにたいしりょうしんはひょうめんじょうはおうえんしてくれたが、そのめにはおれへのきづかいがみられてた。 おれはそれをかえるためにひっしにどりょくした。 あされんはぶいんのだれよりもはやくきて、れんしゅうはだれよりもおそくまでおこなった。 それだけじゃない、いちばんうまいひとにたのみこんでてくにっくをおしえてもらったり、やすみのときにはちちのこねをつかいぷろこーちにみてもらっていた。 そこまでやってもおれのじつりょくがげきてきにあがることはなかった。 でもすこしずつ、でもたしかにちからはついていき、さんぐんにぐんとしょうかくしていき、こうとうぶにねんじのにがつについにおれはいちぐんにはいるっことができたのだ。 おれはえらばれたときひとのめもきにせずよろこびのあまりさけんだ。 やっとおれのどりょくがみのった、せんぱいたちが、こーちが、かんとくが、そしてりょうしんがかけてくれたじかんはむだじゃなかった、それをしょうめいできたとおもったからだ。 だけどよろこびは、つづかなかった。 おれがさんねんにあがってすぐのはる、こうとうぶからのへんにゅうですさまじくうまいれんちゅうがいっきにごにんもはいってきた。 そいつらはちゅうがくのばすけかいではなのしれたれんちゅうでそのめいせいやえいこうのかずかずはおれもしっていた。 あいつらはにゅうぶしてわずかにしゅうかんていどでいちぐんにはいり、それにおしだされるかたちでおれはにぐんにこうかくした。 もしあいつらがただのしんぎたいすべてがそろったせんしゅたちならおれもなっとくできたかもしれない、しょうがないとあきらめられたかもしれない。 でもちがった、あいつらはくずだった。 あされんにこないほんれんしゅうもみにげーむいがいはやらないのはあたりまえ。かたづけもいっさいせず、それらはすべてせんぱいたちにまかせっきりにじぶんたちはそうそうにべつのがっこうのじょしとあそびあるいていた。 さいしょはみんなちゅういした。でも、そうしたらあいつらは「これいじょううるさくいうならもうやめる」といいだしたのだ。 あいつらのさいのうがほんものなのはまぎれもないじじつ。 もしもあいつらがやめてしまえば、おとのみやがくえんのねんがんのぜんこくせいは、そのゆめがたたれるかもしれない。そうかんがえたかんとくやいちぐんめんばーたちは、あいつらのばんこうをもくにんしいんぺいするようになってしまった。 おれはひとりこうぎやちゅういをつづけたが、それをうとまれたのかおれはごがつにさんぐんにまでおとされてしまった。うちのばすけぶがぐんへんこうをおこなうのはいっかげつにいっかい、くわえてあいつらのようなとくれいちゅうのとくれいをのぞけば、いきなりいちぐんにいくなどのことはできない。 そして、いんたーはいよせんのかいさいげつはろくがつ。 おれはどうあがいてもゆめのいんたーはいにさんかすることはできなくなってしまった。 もちろん、あいつらがいんたーはいでけっかをだし、うぃんたーかっぷのしゅつじょうけんをてにいれればまだおれがおとのみやばすけぶのいちぐんとしてでれるかのうせいはぜろではない。 でもしんじたくなどなかった、あんなくずどもをしんじてまかすなどおれにはできなかった、それしかてきないとわかっていても。 おれは、くやしかったにくかった………ただただ、むりょくだった。 ………だからちからがほしい。 どりょくせずにのぞむばしょにいけるくずどもをじごくのはてまでおいかけ、おいつめ、おいだすちからがほしい。 ………すぽーつまんしっぷにはんしてることはわかってる。でも、それでも、おれはみたいんだ。 おれのためにじかんをかけてくれたたいせつなひとたちの、つくりものじゃないえがおを。それをじゃまするやつらは、 だれであろうとゆるさない。
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