部屋の中
部屋の中
「郵便です」
郵便局員の声に目を開くと私を取り囲む世界がまるで昔からそこにあっかのように、もしくはついぞ今構築されたように現れる。
「はい」
どうするか考える前に返事をしてしまった。
意識がまだはっきりしないが、玄関へ向かうしかなくなる。
息を大きく吸い込み目を瞑ると世界はまた闇に閉ざされ無へと帰した。
などと戯言で世界を消してみたところで私の五感がひしひしと世界を感じるのだった。
そう、
「ともあれ、私は存在している」
体を起こし床を軋ませながら玄関へと向かう。
「遅くなって申し訳ない」
そう言いながら玄関の扉を開けると郵便局員ではなく明るい花柄のワンピースに身を包んだ老婆が立っていた。
想像していなかった事に思考が止まる。
しかし互いの沈黙が私を急かし、思考を再開させた。
「どうしました?今しがた郵便局員の声がして飛び出したんですけどね、見ませんでしたか?誰かその…」
老婆は反応しない。
「困ったな…」
ひとりごちりながら、老婆をしっかり見据える。彼女の瞳はこちらを見ていたが白く濁っており、世界を見る事はできていないのではないだろうかと思わせた。そして、彼女は穏やかに口角を上げて微笑んでいるのだった。
「あの…お名前は?どこから来たんです?」
返事はない、玄関の庇から出て空を見上げると太陽がちょうど真上で燦々と輝いていた。
「良い天気ですね。
ほら見てくださいよ、私はそこの溝が好きでね、ヘドロが沈殿して水が澄んでいるでしょう、よく見るとたくさんの小さな生き物達がそこで暮らしていてね、何時間でも見ていられるんですよ、私はヘドロから頭を出して忙しなく痙攣させているイトミミズが好きでね…それにまだ菜の花も咲いている。ほら、そこです。モンシロチョウ達が戯れてますでしょう?これ以上に美しい世界はないと思いませんか」
老婆は空虚を見つめたまま、まだ微笑んでいた。もしかすると彼女は耳も聞こえていないのかもしれない。すべてが憶測だが、1つの考えが起こる。老いることで私達は世界を徐々に認識すること自体も難しくなるのではなかろうか。それはどう言う感覚だろう。世界が消えた時そこに何が残るのだ?背後から来る恐怖の様なものを感じるが、それは私が肉体に依存した世界の捉え方をしているからだろう。これは早急に精神で世界を捉える方法を考える必要がありそうだ。
私は空を見上げ、独り言のように老婆へ話しかける。
「今はいいが、そこもそのうち日が当たりますからね、あまりそこに立っている事はおすすめしませんよ」
微動だにしなかった老婆が指を動かしたように思ったが、それは彼女の指には不釣り合いな赤い宝石の指輪に何かが映り込んで反射し、私の目に入ったようだった。私はとりあえず老婆をそこに放置して家の中に戻った。
屋外と屋内の明暗差で部屋の中の世界はまだ構築されていなかった。それでもやはり五感がひしひしと世界を感じて止まないのだ。
手探りで辿り着いた先の洗面所で水道の蛇口を捻った。
当たり前のように水が流れる。その当たり前のフィルターにかけられたこの物質を改めて見るとなんとも不思議だった。水を運ぶパイプ部分は反射する表面が硬く見えせるがその湾曲した形は柔らかさを生みだしていた。その先から透き通る流水が柱になり陶器の洗面台に縫合されている。水の柱に触れると今度は私の手が水の柱と縫合されるのだ。そしてその水圧と冷たさに意識が揺さぶられる様だった。
手と顔を洗ったが拭くものが何もなく仕方なくそのまま、洗面所を後にする。水滴が床に落ちると、時計のないこの家に時間が生まれた。
時間が生まれてしまった以上ここで眠っていることもできず、私は仕方なく鏡の前に立つ。
だらしない寝間着姿の中年の男がいた。
寝癖を手で押さえ込み、椅子に掛けてあるジーンズと白シャツに着替え家から外へ出る。
老婆はいなかった。誰も占拠するものがいなくなった空間は静まり返った海の様に穏やかに見えたが、小さなさざなみの様に黒い染みがアスファルトに残されていることに気付く。
染みから目が離せない。
それはねっとりとしたタールのようであり、黒い精液の様にも見えた。
太陽が傾きじりじりと染みを照らしだす。
それは排気ガスの様な臭いをさせながら目に見える速度で蒸発していた。
そのうち老婆がいた痕跡は私の世界から消えてしまうのだろう。関わることがなければ他人など、いとも容易く消えてしまう。私の世界に他者は誰もいなかった。あるのは辺の集合体と残像だ。
世界から消えようとしている老婆の痕跡の中からきらりと私の目を刺す何かが姿を現しつつあった。太陽の光を集め燃え上がるそれは赤く光る宝石の指輪だった。
私は子供に戻ったようにしゃがみ込み染みが蒸発するのをまじまじと見つめた。
遠くで犬が吠える。私もおどけたようにワンと吠える。
ものの数分でべっとりした染みはなくなり赤い宝石の指輪だけが残った。それを手に取り太陽にかざして光を集めると、透過する赤が世界を染めた。サイズが小さく指にははまらなかったので、ひとしきり眺めてそれをポケットにしまい込んだ。
私は照りつける陽の光を浴び、当て所もなく歩いた。霊園のような住宅街を、荒野のようなあぜ道を…そして、田舎町のどこにでもある年老いた商店街で立ち止まった。
アーケードのある100mほどのこじんまりとした商店街だった。活気はなく殆どの店がシャッターを閉めていた。
アーケード全体にチリンチリンという侘びしさを増す音が響く。後ろを振り返ると目も開いてるかわからない程に皺に覆われた老人が自転車に乗ってこちらに近づいていた。
私は道ならいくらでも空いてるじゃないかと思いながらも、道を譲るように横へと避ける。ぎこぎこと老人と同じくらい年季の入った自転車の音と共に老人がすれ違いざまに何か言った様に思ったがよく聞き取れなかった。
遠のいて行く老人の後ろ姿がみるみる小さくなる様は、まるで時間そのものだった。いつまでも見ていたいと思ったが、直ぐに壁に阻まれ見えなくなってしまった。
何故、私の時間の視界を遮る壁があるのかと思えば私はいつの間にかこの商店街で僅かに生きている店の中に片足が入っていたのだ。道を譲った際に入ってしまったのだろう。
そこは店と言うにはあまりにも簡素だった。仕切りなどすべて取り払われた白い空間に棚が置かれてるだけの無人販売店のようであった。売られているものはと言えば蟻だ。透明の箱に土と一緒に入れられ売られている蟻。
棚には蟻を入れた透明な箱が6つと中サイズのダンボール箱が1つ置いてあった。ダンボール箱には太いマジックで乱雑に3000円と書いてあった。それ以外は何もない。透明な箱を1つ1つをじっくりと眺める。蟻達はあっちへ行ったりこっちへ行ったり、触覚を洗ったり餌を運んだり同じ巣の連中と取っ組み合ったりその小さな命を忙しなく消費していた。
巣の断面はまるで何かを伝える象形文字のようであったが、いくら観察してもそこに共通点を見いだすにはあまりにも入り乱れ混沌とした道筋を作り上げていた。
私はジーンズのポケットを探り、角の取れた丸い石といくつかの小銭を取り出した。小銭は500円玉が6つ、ちょうど3000円あったのでそれをまとめてダンボールに放おった。
透明の箱を1つ取り上げ、まじまじと蟻達を眺めるがこちらに気付いていないのか興味がないのか変わりなく生活を続けていた。
箱がなくなりバランスの悪くなった棚が目の隅に入る。私はポケットにしまい直していた角の取れた石をもう一度取り出すと透明な箱のあった場所に石を置いた。
とてもバランスが良かった。急に私を取り囲む全てのことが宇宙の調和の一部になれたかのような素晴らしい高揚感に包まれた。
私は蟻の巣箱を脇に抱え商店街を出るとまた当て所もなく歩き始めた。ここまで来るまでの無味な世界ではなかった。今の私は調和の一部であり、その守護者こと蟻達がいた。そのことを考えると歩む足が早くなった。
そのうち、私は住宅街に入っていた。
住宅街で目当てのものを探しながら道なりに進む。
電信柱にキスをして放置された乾燥しきった犬の糞をわざと踏んだ。気分が良かったのだ。
すると探していたものが目に入った。
"売物件"と書かれた看板だ、私はすぐさまその看板の立てられた家の玄関に向かいドアノブを捻った。当たり前のように開かない、鍵はしっかりとしてあった。素晴らしい事だ。裏手に回って鍵の空いてる窓を探るが、一つもないので、息をするように惰性の中の無味な動作で窓ガラスを割ると鍵を外して家の中へと入った。
穏やかな空間だった、時間はなく静寂がまどろみ横たわっていた。やはり空き家の方が心地良いものだと思いながら1番日当たりの良い部屋を探して「光りあれ」などと大袈裟な物言いで窓を開け雨戸を開けた。
世界が構築されていく。
日差しは水の中を照らすようにゆっくりとなだらかに揺れていた。木陰もそれに合わせてそよぐ。
私は買ってきた蟻の巣箱の蓋を開けるとフローリングの上に土ごと出した。突然の天変地異に何が起きたのか分からず右往左往する蟻たち、数匹の蟻たちは既にこのフローリングの新天地へと足を伸ばし始めていた。
それらを眺めていると、何か居心地の悪さ、バランスの悪さに落ち着かなくなっていた。こうなると私の手持ち無沙汰になった指先がところ構わず何かを求めるように触ってしまう癖があるのだが今は自然とシャツを触っていると、胸ポケットの中に固いものがあることに、気付かされる。
老婆の指輪だった。
やはり全てが調和の上にある事に私は踊りだしたい気持ちになったが興奮を抑え、赤い宝石の指輪を蟻の巣だった土のこんもりとしたてっぺんに置いた。
私はそれら全てを見渡せる部屋の一番奥の影の中に腰を下ろし満足そうに見やった。風に揺れる光と影、光は宝石の反射によって一部を淡く赤い光に変えて部屋を照らした。その中を静かに蟻たちが歩いていた。限りなく遅く流れる時間に瞼が重くなり始める。
1分が1時間になった…
1秒が1日になった……
0.1秒が1年になった………
そして、全ては調和の中へと溶け合い、私は世界となった。
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