「ああそう! 僕の言うことが聞けないわけか!」 ひどい音がした。ついでに、ひどく怒った主人の声も。 ここが完成な住宅街でなくて良かったと安堵しながら、阿佐ヶ谷真澄はちょっと肩を落とした。 (マルス……また怒ってる) ひょんなことから魔法使いの末裔である青年、マルスと契約をすることになった真澄だったが、未だに彼の癇癪には慣れなかった。 マルスは無愛想で、その優しげな美貌に反して気性の荒い青年だ。彼と出会って、生活を共にするようになってからというもの、人が怒るシチュエーションというのはこんなにも勃発するものかと驚きも呆れもした。今日は何をそんなに怒っているのだろうか。 やれやれと肩をすくめながら、手にしたハタキを棚に置いて、真澄は階段を降りる。木造の階段は、決して軽くはない一青年の真澄の体重を受けて、ギシギシと軋む。 その足音に気がついたのだろう。怒鳴り声が一瞬止んだ。その隙を狙って、真澄はあえてのんびりとした声を出す。 「マルス〜? また何かあったんですか?」 「……真澄」 麻のカーテンをめくり、リビングへ出てみれば、マルスは気まずげに視線を逸らした。 「何でもない」 「何でもなくはないでしょう。すごい声でしたよ」 一本の三つ編みに編んだ金糸の髪。その前髪を細い指先で掬って、マルスは額を押さえ蜂蜜色の瞳を伏せる。その様子は、木製の床に投げられる白く細い陽の光と相まって、ちょっとした宗教画のようだった。形のいいが乾いた唇が、不機嫌に言葉を紡ぐ。 「……何でもない。そう言ってる」 彼の向かい合いに、途方に暮れたように佇んでいた森番兼使用人のデルタが、分厚い肩を軽くすくめて真澄を振り返った。 「何でもないんだ、真澄。私がいけなかった」 どこかいとけない物言いで言葉少なに言って、凛とした眉を下げる。マルスの足元に散らばる割れた花瓶に手を伸ばした。 「ま、待って下さい、デルタ」 「ん? どうかしたか」 「素手だと怪我しちゃいます。箒と塵取りを……」 慌てて二階へ引き返そうとすると、マルスの声が引き留めた。 「いい。……僕がやった」 だから。そう言って、マルスは長い指を鳴らした。乾いた音と共に、箒と塵取りが、呼びつけられた行儀の良い従者のように姿を現す。 箒たちは、くるくると踊るように仕事をする。硝子の破片がちゃりちゃりと淡く鳴って、塵取りの中に集められた。 「どこに捨てればいい?」 まだ怒っているような声で、けれど叱られた素直な子供の目で、マルスは真澄を上目遣いに見た。 根は良い人なんだ。ちょっと怒りっぽくて無愛想だかど……。真澄はくすりと笑って、塵取りを拾い上げた。 「おれがやっておきます。ひょっとしたら使い道があるかもしれないし」 「触ると怪我をするぞ」 「リサイクルする時は手袋をしますよ。心配してくれてありがとうございます、マルス」 「心配……べつに」 もごもごと言い訳をするマルスに、真澄は小さく噴き出した。 「何か?」 「いえ、何も。マルスは優しいなって」 「優しくない」 やけにきっぱりと、マルスは言い放つ。そして、溜め息をついて踵を返した。床を軋ませながら杖をついて進み、椅子に腰掛ける。 「ところで、何があったんですか?」
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