日中の暑さが残る午後七時、恵比寿駅前で待つこと十分。 「お待たせ」と現れたイトウちゃんは挨拶もそこそこに歩きだした。 連れていかれたのは飲食店ばかりが入った三階建てのテナントビルだ。階段を上がって二階の突き当りに、いわゆる韓国宮廷料理店はあった。 「いらっしゃいませぇい」 チマチョゴリに身を包んだ店員が出迎えてくれた。 個室に案内されると、四角いテーブルの中央には卓上コンロがあり、その上には丸い鉄板が乗っかっていた。 民族衣装を着た人が次々(比較的乱暴に)料理を運んでくる。小皿料理がテーブルを埋め尽くし、シメはなぜか焼肉だった。 韓国の宮廷がどのようなものかは知らないが、宮廷感があるのは内装だけだと感じた。 個室にいるせいか、気づけば三時間ほど経っていた。 イトウちゃんは煌びやかな内装に負けないくらいの派手な人脈や華やかな日常生活の様子を披露した。その間、私に質問したことといえば、出身地と住んでいる場所だけだ。 気づけば卓上コンロの炎はとっくに消えていた。 なんだかメリーゴーランドに乗っているみたいで目が回った。三半規管が弱い人ならとっくに酔っている。 ひときわ優雅に白い鬣をなびかせているのがイトウちゃんだ。私は馬車の中から、ただただその光景を眺めている。共感や共有できる体験がない。 早くお開きにならないかな……。 太い手首に巻きついている時計をちらと見た。 意外にシンプルな腕時計で驚いた。 「オメガ、なんですね」 イトウちゃんは私の心理を読んだかのように、「ロレックスするヤツは頭が悪い」とバカにした。 そういえば、ヤッシーはロレックス自慢をしていたっけ。 あえて小ぶりなボーイズを選んだと主張していたが、きっと誰かの受け売りだろう。 「これからキンクイで日テレのヤツらと会うんだけど、かっちゃんもくる?」 キンクイとは青山にあるディスコ「King&Queen」だ。 行ったことはないが、テレビや雑誌で紹介されていたのを見たことがある。 それはまさしく宮廷。いや回転木馬? キングとクイーンが音楽に合わせて夜通し踊っている場所……なのだろう。 「……やめときます」 たとえイトウちゃんと一緒でも敷居が高い。転んで大けがをしそうだ。 誘いに乗れば朝帰り確定だし、そもそもこんな格好で入れる場所じゃない。 恵比寿の韓国宮廷料理店にはなかったドレスコードが、青山のキンクイにはあるはずだ。きっとある。 「そ? じゃ、おつかれ」 やっぱりしつこく誘わないイトウちゃん。 もしかして、キンクイへ行くまでの穴埋めに誘ったのだろうか、と訝ってしまう。 タクシーを拾ったイトウちゃんに「ごちそうさまでした」とお礼を言い、恵比寿駅へ向かって歩きだした。 なんだか疲れた。どっと疲れた。 開放感と、ほんの少しの失望感がわいてきて、 熱い湯船につかりたい……。 そう思っていると、タクシーがゆっくり私の横を通り過ぎようとした。 後部座席の窓が下り、「かっちゃん」とイトウちゃんが顔を覗かせる。その目は暗い夜でもギラついていた。 「次は台湾料理だから」 タクシーは加速し、炎のようなテールランプが光の渦に紛れていった。
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