なんだか虚しい。 でかい湯飲みにプリントされた魚へんの漢字が、すべて「虚」に見えてくる。 魚へんの虚はなんの魚だろう。 「じゃぁイトウちゃんを本気で好きになったら、寂しい思いをするね」 思わず口をつき、イトウちゃんは驚いた顔で私を見た。 太い腕を無理やり組んで「うーん」と唸る。 「じゃっさー、かっちゃんはおれの事、本気で好きになったりする可能性、あるワケ?」 私も「うーん……」と考えるふりをした。 「だろぉ? まぁ、おれみたいな男は”百害あって百利あり”みたいなパターンだからさー、”当たるも百卦当たらぬも百卦”で付き合ってみるのも面白いかもよ」 予期せぬ方向に話が進み、目をシバシバしている私の隣で、イトウちゃんは香港で買ってきたという裏地の下品なサンローランのジャケットをはおりはじめた。 「おやじ、ごちそーさん。おあいそね」 突然訪れたエンディング。 「領収書ちょうだい」とおあいそする大きなガタイの後ろをすり抜け、店の外に出た。 「ごちそうさまでした」 つま楊枝をくわえたイトウちゃんにお礼を言うと、 「いい、いい。それよりさー、浦安のホテルのバーにボトルが入ってんのよ」 と、勝手に歩き出す。 浦安はイトウちゃんが一人暮らしをしている南葛西にめちゃくちゃ近いではないか。 「浦安?」 思わず立ち止まった。 「おれさー、経費が年間、百あるだろ?」 知らない。ていうか、百って百万のことだよね。 「だぁらさー、接待でよく使ってんのよ、うらやすを」 かえって都心の一流ホテルよりインパクトがあると主張する。 「うーん……でも浦安まで行くと帰れなくなるから」 「かっちゃん、横浜だよね」 「うん。だから日比谷線で帰るよ」 「あっ、そ? でもおれ今日マシンだからさ、湾岸飛ばせば三十分よ」 「いいよわざわざ。それに飲んでたらマシンに乗れないでしょ?」 「あっ、それはノープロ。おれビールは舐めただけだし、時間も経ってるしさっ」 イトウちゃんは身体をマシンの方に向け、重そうなキーの束をジャラジャラもてあそんでいる。 まるで私に睡眠術をかけるように……。 「……やっぱ、帰るね」 余計な妄想にとらわれ過ぎて、私は時々身動きが取れない。 もしかしてイトウちゃんが最初から計算づくで、部屋の中をきれいに片づけていて、これ見よがしなギョーカイ人グッズを「あっ、それ宣伝で配ったのよ」とか説明しながら近づいてくるかもしれない。 「シャワー使って」なんて部屋着とバスタオルを渡されながら、「なんでこんなものが男の一人暮らしのバスルームにあるの?」的なコスメ関係を見つけ余計な感情にとらわれてしまうも後の祭りだ。 「お客多くてさー」と使い捨て歯ブラシを出すイトウちゃん。 ちょっと待って。泊まるつもりじゃないのよ。湾岸飛ばせば三十分でしょ。 けれどサンローランのジャケットはクローゼットの中で、マシンのキーは靴箱の上で、眠りについている。 ちょっと待ってよイトウちゃん。 催眠術が解けたように騒ぎたてる私。 そんなつもりじゃないんだけど。 じゃあどんなつもり? 思い上がった妄想が次々と頭の中を支配した。 イトウちゃんは相変わらず自信に満ちた表情で、キーをジャラジャラいわせている。 「ごめんね。ごちそうさま。楽しかった」 私はおそらく今日一番の笑顔でイトウちゃんに頭を下げた。 「ん、わかった。じゃっ気をつけて、おやすみぃー」 イトウちゃんは深追いしない。 私を誘っていた時とは違うリズムでキーをジャラジャラいわせながら、道沿いに停めていたマシンに向かって歩きだした。 いちおー礼儀として、マシンを走らせるまで見送る私。 ったく、反対じゃないの。 せめてそのマシンで、「銀座でいいなら送るよ」くらい言えないの? イトウちゃんは誘いを断った私の手前、出来るだけいい男然としてマシンに乗り込もうとしている。……みえみえだ。 一度羽織ったサンローランのジャケットを、眉間に皺寄せもう一度脱ぎ、助手席のシートの上に丁寧に置いたあと、するりとシートベルトを抜き出した。 この光景を他人が見たらどう思うだろう。私は背筋をピンと伸ばした。 寿司屋から、サラリーマンが楊枝をくわえながらぞろぞろ出てくる。 カラオケボックスの派手な看板の下では、渋谷に集えない風体のこぞうたちがたむろっている。 イトウちゃんは私に向かって軽く手をあげ、サラリーマンやこぞうたちに「どぉーだぁ!」と言わんばかり、マシンの厚いタイヤを鳴らしてUターンし、走り去っていった。 交差点の信号が変わり、マシンの音がLPガスやレギュラーガソリンで回したエンジン音に紛れていく。 私は伸ばした背筋を緩めながら、地下鉄の入口に向かって歩いた。 (1章「ジャルデス」おわり。次回は2章です)
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