まるでモーセが海を割ったように、道が現れた(?) 東京ドームのアリーナは人の海だ。 パイプイスの波間を、私は「GUARD」とプリントされたTシャツ姿の男の子に先導されながら最前列の席へ向かった。 開演時間が迫り、ほとんどの人が着席してその時を待っている。 通路側にちらほら空席があるのは、おそらく控室にいた芸能人たちの席だろう。一列ごっそり空いている場所は、七人組のアイドルが座るのかも知れない。マネージャーに連れて来られた少年たちは、まだあどけない顔で、とても眠そうだった。 ワンブロック先に、ヤッシーの後頭部が見えた。 なんだかんだ言いながら、来てくれたんだ。 GUARDの男の子に「もう平気です」と断り、私は最前列ど真ん中の席へ向かった。 ヤッシーの隣へ滑り込むと、彼は腕組みしたまま私を一瞥する。 「のんびりしてるな」 「すみません。裏でイトウさんに挨拶してました」 ていうか、なんで私が謝るの……? 誘った事を後悔してしまう。 けれどヤッシーは、思いのほか嬉しそうだ。 それはそうだろう――。 この状況に、平常心でいられる人などいないと思う。 ステージまでの距離が、思っていた以上に近い。 いわゆるかぶりつき状態だ。 ボクシングならリングサイド、相撲なら升席みたいなものだろうか。 どちらも行ったことはないけれど……。 突然会場の照明が消え、場内が真っ暗になった。 と同時に歓声があがる。 私とヤッシーは、周囲につられて立ち上がった。 電光掲示板みたいなセットに、マイケルの足下を想起させる映像が流れた。 エレキギターのソロが響き、眩しい照明が会場を照射する。 耳をつんざくようなチョーキング――。 今度はステージにスポットライトが当り、拳を突き上げたマイケル・ジャクソンが、降臨した。 「マイケルー!」 「マイケール!」 「マイコー!」 歓声が悲鳴に変わる。 マイケルはバッジのような装飾がついた黒いジャケット姿で、四人のマッチョなダンサー兼コーラスを従え、ハイトーンボイスで歌い出した。 オープニング曲は「スタート・サムシング」だ。 何枚かアルバムを聞いて、予習してきてよかった。 軽やかなステップで、ステージを右へ左へ移動しながら、踊り、歌う。 ノンストップでショーは続いた。 「どうもありがと!」 日本語で挨拶すると,さらに会場が湧いた。 ジャクソンズ時代の曲や、最新アルバム「Bad」に収録した新譜まで、構成はバラエティに富んでいた。イリュージョン仕立ての演出や、ミュージカルのワンシーンのような場面もあり、私は目の前で繰り広げられる超一流のショーに、ただただ圧倒されるばかりだった。 あっという間に時間が過ぎ、ついに「ビリージーン」のイントロが流れ出した。 一本のスポットライトがマイケルに当たる。 今宵何度目の衣装チェンジだろう。 黒いスパンコールのジャケットに、左手にはキラキラ光る白い手袋。足首にはルーズソックス(?)を履いたマイケルが、ステップを踏んだ。 場内の歓声がひときわ大きくなる。 これがショーのハイライトといっても過言ではない。 もうじき彼の代名詞でもある、ムーンウォークが披露されるからだ。 ヤッシーをチラ見したが、特段表情は変わらない。 いや、ヤッシーを見ている場合ではない。 私が見るべきは、ムーンウォーク。 それもこんなにかぶりつきで見られるなんて、二度とない事なのだから……。 間奏になり、ドラム音が響いた。 いよいよだ。 背後から観客の期待感がひしひしと伝わってくる。 一瞬たりとも見逃せない。私はその姿を目で追った。 すると、 ええっ?! マイケルが、ステージの前方へ歩み出してくるではないか。 客席に可能な限り近付いてくれるサービスだろうが、私には(いや、前の席にいる私たちには)彼の上半身しか見えなくなる。 つまり、足下の動きがわからないのだ。 うそ……。 キョロキョロしていると、並びの席にいる見知らぬ誰かと目が合った。 きっと同じ懸念を抱いているのだ。 隣のヤッシーを見たが、彼の表情はピクリともしない。 まさか知らないのだろうか。 これから、あのムーンウォークが始まるという事を。 そしてそれが、物理的に見られない事態に陥ろうとしている現実を……。 それにしても想定外だ。 最前列ゆえ、ステージの左右にある大きなモニターも見えないではないか。 ――最前列ど真ん中。気分いいぞ。 欲をかいた人間が、揃って罰を受けている気になった。 ステージの上では、マイケルの上半身が滑らかに後退し、観客は大興奮だ。 きっと、ムーンウォークをしているのだろう。 その場で360度回転している姿には、拍手喝采だった。 私も(いや、前の席にいる私たちも)上半身しか見えないマイケルに拍手を送った。 なんだか滑稽になり、 「見えないですね」 ヤッシーに話しかけた。 「ほんとだね。肝心なとこなのに」 珍しく意見が合い、顔を見合わせて笑った。 とはいえ、そんな事などどうでもいいと思えるくらい、すべてが圧巻だった。 アリーナの最前列に座ろうと、たとえば三階席で、ゴマ粒のような姿しか見ることができなくとも、マイケル・ジャクソンの輝きは世界の隅々まで届き、照らしてくれる。 アンコールはなかった。 あっさり客電が点き、誘導に従い退場するようアナウンスが流れる。 見回すと、皆、放心状態で座っていた。 消え残ったスモークで、視界がかすむ。 「凄かったな」 「凄かったですね」 それ以上、言葉が出ない。 私はとてつもない無力感に襲われていた。
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