ジャルデス。 その俗称を私に教えてくれたのは、大手広告代理店広報堂に勤務する若手AE(アカウントエグゼクティブ。いわゆる営業)のイトウちゃんだった。 1987年、初夏。 東京の夜はたとえ茅場町といえども煌々としている。 イトウちゃんは朝四時まで営業している寿司屋のカウンターで、「ここはいくら食べても知れてるからどんどんいって」と、おしぼりのビニール袋をパーンと割った。 話はひと月前に遡る。 * 私が勤務する制作会社「リアン」に、広報堂から仕事の依頼があった。飲料メーカーが主催する気球を使った販促イベントだ。そこにいたのがクライアント担当のイトウちゃん。初対面の私たちは儀礼に則り名刺交換した。 イトウちゃんは大学時代、けっこー有名なラグビー選手だったらしい。 そのせいかガタイが良くて、日に焼けた顔は彫が深く、なにより声がデカくてキャスティングされたタレントより目立っていた。 代理店の営業である彼と直接話す用事はなく、事務的な会話をしたくらいで本番を迎えた。 それなのにイベント終了後、いきなり「かっちゃん、今日ヒマ?」と、友達からも呼ばれたことのない名前で声を掛けられ戸惑った。 かっちゃん……? しかし撤収作業が押していて、問い質す余裕がない。 「今日はちょっと……」 やんわり断り反応を待ったが、イトウちゃんは残念がるそぶりも見せず、「そ、じゃまた電話するよ」とあっさり引き下がった。 私は拍子抜けした。 そして、ただ打ち上げに誘われただけかもしれないのに、一瞬でも思い上がった想像が頭をかすめたことを恥ずかしく思った。 「また、今度よろしくお願いします。お疲れさまでした」 今度やまたは、ただの挨拶。 そんな日は二度とやってこない……。 私はたかをくくっていた。 しかしイトウちゃんは違った。 そこのところが、他人と大きく違っていた。 三日後、職場に電話してきたイトウちゃん。 『かっちゃんごめんごめん。すぐに電話できなくて』 面食らったが、人見知りがちな私は顔が見えない相手だと強気になれた。 「あの……なんでかっちゃん、って呼ぶんですか?」 『かっちゃんはかっちゃんだからだよ。勝野あき子、って名刺に書いてたから、かっちゃん。それともあきちゃんにする? でもそれって平凡だろ』 逆にぐいぐい距離を詰められ口ごもった。 隣席のヤッシーこと八嶋先輩がひやかすように身を乗り出してきた。 「珍しいな。デートのお誘い?」 かくいう先輩も元広報堂のオトコ。 イトウちゃんと知り合いかどうか定かではないが、確かめると面倒な事態になりかねないのでやめておいた。 そんな事情など知る由もないイトウちゃんは、唐突に私を誘った。 『かっちゃん、韓国宮廷料理食いに行こう』 「きゅうてい、りょうり?」 思いのほか大きな声が出たようで、ヤッシーがニヤリと笑った。 それにしても韓国宮廷料理とは意表をついている。 なぜか頭の中に『ラストエンペラー』の映画音楽が流れ出した。 「……面白そうですね」 反応に困り、はぐらかしたつもりなのに、イトウちゃんには通じないみたいだ。 「でしょ? 明日予約しとくよ」 一方的に待ち合わせ場所を告げられ通話が切れた。 ヤッシーが私の口調を真似た。 「おもしろそぉですねー」 面白がっているのはヤッシーの方だ。 「面白そうなら行ってみれば? 営業営業。えいぎょーだよ」 無責任な発言にムッとしたが、宮廷料理というものに興味を持った事は否めない。 どんな料理だろう。なにを着て行けばいいのだろう。 あれこれ悩んだ挙句、結局普段のパンツスタイルで出かけた。 誘い文句は軽いが、相手は一応広報堂の営業。小さな制作会社に仕事を回してくれるありがたい存在だ。 ヤッシーがひやかし半分で口にしたように、営業の一環だと思えばいい。
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