バブルの戦士、イトウちゃん
6 バブル⑥最終回

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 クリーニングのタグを取り、ブルゾンに袖を通すと、去年の記憶がよみがえる。  あれから季節が一巡りした。  同じ場所を歩いているだけなのに、街の景色は変っていく。  リアンはイベント部門の主任が辞め、ついに映像部門だけになってしまった。  会社を立ち上げたときから在籍しているのは、ハッシーとヤッシー以外、経理の渋川さんと私だけだ。  他にメンバーが二人いたが、突然辞めてしまったり、実家に帰ってしまったりと、欠員を補充できずにいた。いや、する必要などなかった。  今のところ、四人で仕事は回っている。というか、回るようになってしまった。  カラオケ映像制作の依頼がある限り、なんとかやっていけそうだ。  当初の目的とは違うかもしれないけれど。  電話も鳴らない静かな朝だ。  見積書を作成しようとワープロを立ち上げたとき、ヤッシーが突飛な質問をした。 「勝野さん、ホームエステとか興味ある?」 「ホーム、エステ?」 「実は『美粧』がホームエステブランドを展開するみたいで、ハウツービデオを頼まれたんだよね」  美粧は化粧品の国内トップ企業だ。驚く私にヤッシーは資料を差し出した。 『美粧ホームエステプロモーション展開』と表題がついている。  それによると、近年、女性はメイクアップよりスキンケアに興味を持つ傾向が強くなったという。とはいえ、顔に比べてボディケアはおろそかになりがちだ。 「――そこで美粧は、デイリーなホームエステを提案します。ボディケア商品『BUBBLEバブル』(仮)で、美しさへの新しい習慣を!」    声に出して読み、「バブルねぇ……」と呟いた。  商品のラインナップは、入浴剤の「バブルバスソルト」と、角質ケアをおこなう「バブルスクラブ」。ボディ全体をセルフマッサージするための「バブルリッチボディクリーム」に、マッサージ後、肌を整える「バブルローション」だ。  使用感がまるで泡のように優しく、肌への負担が少ないのが特徴らしい。    リアンに依頼されたのは、この『BUBBLE』(仮)を使用した三十分程度のボディケアレッスンビデオ制作だ。商品を購入してくれた人への特典にするらしい。  エステなんて縁のない世界だ。  他人事のように資料を流し読みしていると、 「そういうわけで、勝野さん担当ね」  わけも教えずヤッシーが丸投げした。 「え? 八嶋先輩が受けた案件じゃないんですか?」 「よく見てよ。これ、裸案件だよ」 「裸……案件?」  業界用語だろうか。いや聞いたことがない。  人気エステシャンが監修した別添資料には、バストからウエスト、腰回りにヒップ。太もも、ふくらはぎに至るまで、効果的なセルフマッサージ方法が紹介されていた。  イラストとはいえ、確かに「裸」だ。ヌードOKなモデルに依頼しなければならないことが見て取れる。 「プロジェクトメンバーも、リーダー以外はみんな女性なんだよね。現場に男は極力行かない方がいいと思ってさ。なにせ、裸案件だから」 「裸、裸って、面白がってません? ボディケアって呼んでくださいよ」  私は軽く諫め、モデル候補を探そうとファイルを取り出した。すると、 「実はモデルと撮影監督は、決まってるんだ」  ヤッシーからこともなげに告げられた。 「え? どういうことですか?」 「モデルは美粧専属のエステモデルで、撮影は石山組。リアンは、制作進行を仰せつかりました」  わざとかしこまったが、私はデジャブを感じていた。  胸がドキドキしてくる。  「気づいた? この仕事、イトウの案件だから」  私は動揺した。  最初からそう言えばいいのに、やっぱりヤッシーはひねくれたヤツだ。    窓の外には、ビル掃除のゴンドラが吊り下がっていた。はめころし窓を業者が清掃しているのだ。  作業員と目が合いそうで、咄嗟に視線をそらした。 「プロジェクトリーダーがイトウのラグビー部の同期で、おまけに美粧はイトウ石鹼の取引先らしい」  そう言われ資料をめくると、メンバー表の最初に、男性(らしき人)の名前がある。 「マッサージ方法をビデオで紹介するアイディアは、イトウが言い出したみたいだよ。紙ベースで説明するより映像の方が分かりやすいって、リアンを推してくれたんだとさ」 「それ、いつの話ですか?」 「まだヤツが広報堂にいたころじゃない? プロジェクトはだいぶ前から始動してるから」  そんな素振りも見せなかったくせに、イトウちゃんはずるいヤツだ。  今頃どこでなにをしているのだろう。  タイにいると聞いたのは、もう数カ月も前のことだけど。 「そういえばイトウが広報堂を辞めたのは、親父さんが病気になったのがきっかけだって。イトウ石鹸を廃業すると言われて継ぐ気になったとか――。明治創業の老舗企業だから、ヤツの代で潰すわけにはいかなかったんじゃない? 興味ないけど」  興味がないという割に、ヤッシーはよく知っていた。 「いしやま監督も、最近CMの仕事が減ってるらしいから快諾してくれたんだって。そのうちカラオケも撮ってくれるんじゃないの?」 「まさか」  しかし世の中には、「まさか」という坂があるのかもしれない。 「そのうち連絡があるかもね。イトウから」  勘が鋭いヤッシーから言われ、再びドキリとしてしまう。 「コーヒーでも淹れよっか。もうすぐハッシーと渋川さんも戻ってくるし」  ヤッシーがミニキッチンに立ち、スプーンでコーヒー豆をすくった。芳ばしい香りが漂ってくる。  すると突然、電話のベルが鳴った。 「はい。リアン、勝野です」  受話器から、サーッと雨のような音が聞こえた。 「もしもし、リアンです」  少し声を張ると、 『かっちゃん?』  懐かしい声が聞こえ、胸がトクンと鳴った。 『かっちゃん? 聞こえてる?』 「……聞こえてます。今どこ?」 『スコールがすごくてさ、窓閉めたとこ』 「スコール?」  ということは、まだタイにいるのだろうか。 『相変わらずヒマしてんな』  憎まれ口をたたかれたが、嬉しい気持ちの方が勝っていた。 「エステのビデオ、ありがとう」  思いのほか大きな声が出てしまい、ヤッシーがケトルを持ったまま振り返りニヤッと笑った。 『ノープロ。人助けだよ。どうせビンボーくさい、しょぼい仕事ばっかやってんだろからさ』 「ビンボーくさくてもしょぼくても、仕事は仕事です」 『おー、国際電話で説教くらった』 「ていうか、どこから掛けてるの?」  作業員が窓に洗剤の泡を吹きつけた。  弧を描きながらワイパーで拭き取ると、曇っていた秋空が晴れていくみたいだった。 『タイはいいいよ。一昔前の日本みたいにギラギラしてる。あ、キラキラじゃなくて、ギラギラね』  どっちでもいいけど、イトウちゃんはやっぱりタイにいた。  私は国際指名手配犯のアジトを突き止めたような気分になる。 『だぁらおれはギラギラ攻めようと思う』  それ以上ギラギラしてどうするの? と、目の前にいたら聞いてしまうだろう。  スコールは止んだようで、イトウちゃんの声がはっきり聞こえだした。 『おれ、ブランド立ち上げっから』 「ブランドって?」 『いくらモノが良くても、下請けのままじゃ先細りっしょ』  イトウ石鹸のことだろうか。  相変わらず、聞いたことには答えないヤツだ。 「家業を継ぐから広報堂を辞めたんじゃなかったの?」 『どうせヤッシーから聞いたんだろ? おしゃべりなヤロウだな』 「突然辞めたからビックリしたんだよ。広報堂に電話しても、誰も知らないっていうし――」 『あれ? かっちゃんもしかして、おれのこと気にしてくれた?』 「そりゃあ心配するでしょ」  イトウちゃんは老舗企業の信用と高品質な石鹸づくりのノウハウを生かして、新しいスキンケアブランドを立ち上げる計画を手短に話した。  それも直営店を展開して、下請企業からの脱却を目論んでいる。  彼の壮大な事業計画は夢物語みたいで、実現するのは大変そうだったが、世の中には、やっぱり「まさか」という坂があるのかもしれない。特にイトウちゃんの周辺には……。 『だぁら、成田集合ね』 「は?」 『あさって帰国すっから、久しぶりに日本料理食いに行こ。なに食べたいか考えといて』  私は成田へ迎えに行くとも、日本料理を食べたいとも言っていない。  その上、広報堂を辞めたことや、そもそもタイへ行っていたことすら知らなかったのだから。  順番が違うでしょ? と訴えたいが、こうやって嵐に巻き込まれていくのも、悪くない。 『もしもーし。もしもーし』 「聞こえてます。成田集合でしょ?」 『あ、虹だ、かっちゃん』  柄にもなくイトウちゃんが叫んだ。  思わず窓の外を見ると、クリアになった秋の空に、今にも消えそうな光の粒が弧を描いていた。 (おわり)   

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