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「かっちゃん、一発ませてやるよ」 「え?」  ほうじ茶は熱湯で入れたのか、熱くてヤケドしそうだった。 それより一発噛ませるとはどういうことだろう。 「なに、それ」 「仕事欲しくない?」  私になんらかの仕事を回してくれるのだろうか。それはマイケル・ジャクソンと関係ある仕事なのだろうか。  ――営業営業。  ヤッシーの顔を思い出した。  仕事は欲しいが、仕事にもよる。  いや、そんなことは言ってられない。  仕事は仕事だ。弱小制作会社は選り好みできない。 「仕事って?」 「どうせ金払うんなら、おいしい思いがしたいだろ。おれらも、大金出してるクライアントも。だぁらいろいろ仕掛けようと思ってんの。その方が楽しいだろ。おやじ、おあいそ」 「マイケルの仕事に噛ませてくれるってこと?」  イトウちゃんは意味ありげに笑う。 「ありがとうございましたぁ!」  威勢のいい声に送られ、おでん屋から出ると、イトウちゃんは領収証をクロコの長財布にしまいながら大通りの方へ歩きだした。 「これからキンクイだけど、かっちゃんも行くだろ?」  行くだろ……?   ジャイケルの何らかの仕事に、噛めるものなら一発噛みたい。  けれどそれとキンクイへ付き合うことは、イコールではない気がするのだけれど……。 「でもこんな格好じゃ入れてくれないでしょ?」  それを「イエス」と取ったイトウちゃん。 「大丈夫、ノープロ。着るもんで入店拒否されるヤツは、それしか能がないヤカラだから。まっ、おれと一緒だと、関所ないかんね」  都内各所の関所には、定期的にパトロールして、それなりの貢物をしているらしい。 「じゃっ、決まり!」  イトウちゃんはまるで予約したようにやって来た空車のタクシーに手をあげ、私を押し込むと行先を告げた。 「青山、クリスタルビルまで」  車は銀座通りを青山方面へ進む。  車窓に流れる街の景色は煌びやかで、誰もが皆、光の中へ吸い寄せられていくようだ。  私がクリスタルビルへいざなわれていくように……。    愛媛の高校を卒業し、大阪の大学へ進学した。  放送芸術学部の広告を専攻したのは、マスコミに、ほのかな憧れたあったからだ。  卒業が近くなり、在阪の広告会社や出版社などの就職試験を受け、全敗した。  しかし同級生も皆、同じようなものだった。  積極的で野心家で、活動的な学生でさえ、その切符を手にすることができなかった。  大阪にさほど執着がなかった私は、高校時代の友人を頼り上京した。  とにかく一度、東京という場所で働いてみようと思った。そんな中途半端な野心を持て余していた。  人づてに、中堅の広告代理店「東邦エージェンシー」がアルバイトを探していることを聞き、面接を受けると即採用された。  急に運が開けた気になったが、そうではなかった。  しょせん私はアルバイト。与えられた仕事は、いわゆる雑用だ。  「大学では広告を専攻していました」なんて履歴は役に立たない。専攻や知識より大学の名前が物をいう。いや、もっと遡って、高校、中学、小学校……。努力では埋められない段差があることに気づいた。  それでも修行僧のように、ひたすら命令に従い滅私奉公に徹した。ほのかに憧れた業界で働いていることが誇らしかったのだ。  仕事(?)は多岐に渡った。  荷物を届けたり引き取りに行ったり、ひたすらコピーを取ったり資料を揃えたり――。  理不尽な私用のお使いも厭わなかった。  代理で観劇のチケットやプレゼントを引き取りに行ったこともある。デートの段取りに浮気のアリバイ工作、業務と全然関係ない使い走りも、厭わず遂行した。  ワープロがフロアに導入された時は、多忙な社員に代わり真っ先に使い方を覚えた。  すると文書作成業務が私に集中するようになり、雑用係からワープロ係に格上げ(?)された。  けれど待遇は変わらない。  いくら重宝され、おだてられようと、しょせんはアルバイト。彼らとの段差は埋まらなかった。  二年が過ぎた頃、「ワープロができる人を捜してるんだけど、会ってみる?」と、デスクの女性が転職を勧めてきた。  デスクは各部に一人ずついて、経費の精算や備品の調達、出張の手配など、部内の秘書的な役割を担っている。全員が女性だ。  彼女たちの業務は私でも、いや誰にでもできる単純な仕事だ。けれど給与は私の三倍以上。  それなのに、いつまでたってもワープロの使い方を覚えようとしなかった。 「勝野さんがいなくなるのは大損失だけど、新しく立ち上げる制作会社だから夢があると思って。それにアルバイトのままでいるより社員になった方がいいでしょ? まだ若いんだから」  彼女は親切で優しい人だった。  生まれも育ちも世田谷で、小学校から大学まで一貫校で過ごし、おまけにフランス留学の履歴を持つ。  私にとっては異次元の世界だ。  その上、東邦エージェンシーに入社したのは、父親の会社が取引先だからだと、決して悪びれることなく話していた。  アルバイトを辞める時、彼女はフロアの女性社員五人を集め、送別会を開いてくれた。  場所は北青山のイタリアンレストランだった。 「みんなからのプレゼントね」  シャレた花束とイニシャルが入った名刺入れをもらった。  私はその名刺入れを、一度も使っていない。 「かっちゃん、これから忙しくなるよ」  イトウちゃんが私の右手に手を重ねてきた。  キッと睨むと、「おれも忙しくなるな」と誤魔化した。

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