広報堂は、以前、イトウちゃんが話していたとおり、古めかしい建物の中にあった。 他に地方銀行の東京支店や、航空会社など数社がテナントとして入っている。 総合受付はなく、直接二階へ上がると、そこは営業局のフロアのようで、電話のベルや話し声が廊下まで響いていた。 ウロウロするわけにもいかず、通りすがりの女性に声を掛けた。 「あの、208会議室ってどこですか?」 髪の長い女性は訪問の理由も聞かず、赤い爪で廊下の向こうを指さした。 「ここをまっすぐ行って、トイレの先を曲がれば三つ目にありますよ」 「ありがとうございます」 奥まった場所には会議室が並んでいた。208会議室とプレートが貼り付いているドアの前で立ち止まるも、物音ひとつしない。 少し不安になったが、ドアをノックしてみた。 「リアンの勝野です」 するとすぐにドアが開き、イトウちゃんが「入っちゃって」と、私を会議室の中に押し込んだ。 「ジャーン」 私はその光景に目を見張った。 札束のような塊が、机の上に、いくつも積まれている。 「え?」 「圧巻だろ?」 よく見ると、当然だが、札束ではなかった。 「チケット?」 「そっ、招待券」 会議室のカーテンは昼間なのに閉じていて、それが余計に、ただならぬ雰囲気を醸し出している。 「なんでこんなにいっぱいあるの?」 「バァだなぁ、ジャイケルは九公演もあるんだよ。それに、東京ドームって何万人入ると思ってんの?」 「そりゃそうだけど……」 招待券とはいえ、この量は多すぎる。 「すごいね」 「かっちゃんに見せとこうと思ってさ」 それだけのために、私は呼ばれたのだろうか。 確かに、この異様な光景を見せびらかす相手としては、ちょうどいいのかも知れない。 チケットはすべて招待券で、『協賛:東京信販株式会社』と目立つように印刷してあった。 九脚の長机に、各公演ごとの招待券が、五つほどの塊になって積まれてある。その高さはバラバラで、分配先の目印だろうか、付箋でアルファベットが記されていた。 ざっと見る限り、すべてがアリーナ席だった。 「かっちゃんん、17日でいい?」 「え?」 「招待券、プレゼントすっから」 私はいろんな意味で絶句し、返事に窮した。 「あ、心配無用。リアンの分も確保してっから持って帰って。どーせハッシーにねだられてんだろ? オネエチャンにいい顔したいからアリーナ席よこせとか、ムリ言われてんでしょ?」 「いや……」 やはりイトウちゃんは、元同業者の心情が読めるようだ。 ヤッシーとハッシーの喜ぶ顔が目に浮かんだ。 ヤッシーは、口にこそ出さないが、マイケル・ジャクソンのコンサートに行きたがっていたし、ハッシーにおいては、露骨にチケットを頼んできた。 ――マイケルのラストツアーになるんでしょ? じゃあ見ときたいじゃない。なんとかなんないの? 勝野さん。 チケットくらい自分で取ればいいのに、少しでも良席で見たいという欲が垣間見える。 「九公演、それぞれ二枚ずつ。みんなアリーナだから満足っしょ」 招待券が十八枚入った封筒を渡された。 「ありがとう。みんな喜びます」 素直に嬉しかった。 バッグにしまうと、「かっちゃんには、これ」と、別に二枚の招待券を差し出された。 「私に?」 「そっ、友達か彼氏と行って。あ、彼氏はいないか」 二枚の招待券は12月17日のアリーナ席だった。 「かっちゃん知らないと思うけど、その席、一番前のど真ん中だかんね」 「え? アリーナの最前列ってこと?」 「おまけにど真ん中ね」 驚いてイトウちゃんを見ると、得意げな顔をしていた。 「イトウちゃんは?」 「あれ? かっちゃんおれと一緒に見たいの?」 「いや、そーゆーわけじゃ……」 「まぁ、おれは毎日ドームに詰めてっから。席に座ってると目立つっしょ? その日、後ろ振り返ってみなよ、関係者ばっかだから。芸能人も招待するしさ。だぁら友達と行って、いい顔してきなよ。どーせ彼氏はいないだろーからさ」 何か言い返そうとすると、忙しないノックの音が聞こえ、私は慌てて二枚のチケットをバッグに入れた。 「おー! 絶景だなー」 部屋に入ってきたのは、日本テレビの太田さんだ。 「勝野さんも呼び出し食らった?」 「あ、はい。じゃぁ私はこれで」 「もう帰っちゃう? お疲れ」 太田さんはそう言うと、長机に近づき、チケットの山に手を伸ばした。 「N」と付箋が貼られた塊だ。 九脚の長机、それぞれに積み重なっているNの山をつかんで紙袋に入れる太田さんを見ながら、「失礼します」と会議室を後にした。 「かっちゃん、また連絡する。お疲れ」 「ありがとうございました」 二人の会話が、ドア越しに聞こえた。 「白川さんの要望通り、固めといたけど」 「イトウは仕事が早いから助かるよ。局長は自分で動かねーからな。おれもそんな身分になりたいよ」 「早くなってくれよ。そいで、もっとデカイ魚、釣ってくれよ」 「マイケルよりデカイ魚なんか、あるか?」 「あるよ。これから、いくらでも、うようよ寄ってくるよ」 二人の笑い声が、私の背中で遠ざかっていった。
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