そんな事ってあるだろうか。 イトウちゃんの消息は、在籍していた部署に電話をしても、不明だった。 も少ししつこく、例えば「誰に聞けばわかりますか?」などと踏み込めばよかった。 けれど余計な勘ぐりをされそうで、踏みとどまった。 またいつか、ひょっこり電話があるかもしれない。 イトウちゃんとの関係はそんなもんだ。 そう思い直し、私は目の前の課題に向き合うことにした。 数日が過ぎたある日のこと、ハッシーとヤッシーが珍しく二人揃って外出先から帰ってきた。 しかしなんだか浮かない顔をしている。 「コーヒーでも淹れるよ」 ヤッシーがミニキッチンに立つと、すかさずハッシーが「勝野さんごめん」と頭を下げた。 「どうしたんですか?」 イスの背もたれにのけ反ったせいで、ギィーと不快な音が出た。 「あれ、中止になった」 「あれ、とは……?」 問い返したが、私の「あれ」は一つしかない。 「崎山商事の店舗が縮小されるみたいで、今後店頭のプロモーションもなくなるらしい。――残念だけどブティックのイメージビデオの撮影、すぐばらしちゃって」 元請である広報堂の営業に呼び出され、いきなり通告されたという。 「でも、来週には撮影が……」 「キャンセル料とか違約金が出たら、当然向こうに支払ってもらうから」 私はデスクの上に広げていた撮影進行表に目を落とした。 この作品が初監督となる五十嵐さんの顔が頭を過り、憂鬱な気分になる。 「……わかりました」 「イタイけど、今回の件で広報堂に貸しを作ったようなもんだから、次はおいしい仕事を回してもらうよ」 そう言うと、ハッシーは分厚いシステム手帳を広げてどこかへ電話を掛けだした。 こんな場面には似つかわしくないコーヒーの香りが漂ってくる。 ワープロを打つだけでいいと言われ採用された制作会社で、初めて企画から携わった仕事だった。 昨年のうちに仕上がっていた絵コンテを、時代の空気に合うよう手直ししてもらい、撮影準備を進めていた矢先だったのに……。 なんて言おう。嫌な連絡は気が重い。 そんな私を見兼ねたのか、ヤッシーがなみなみとコーヒーを注いだマグカップを私のデスクの上に置いた。 「まぁ、コーヒーでも飲みながら連絡すれば」 見上げると、眼鏡の奥の目が優しい。 「いい時ばっかじゃないからさ」 「……そうですね」 私はコーヒーをひと口啜り、五十嵐監督の自宅へ電話した。 完成間近だった建物を解体しているような毎日だ。いや、どこかでひっかけたストッキングが伝線しているのに、なす術もない状態に似ている(?) 知らぬ間に、季節だけが春めいていた。 そんなある日、ハッシーが外出先から帰ってくるなり不満を爆発させた。 「しょぼい案件押しつけやがって」 ブリーフケースから「依頼書」と標題がついた書類を取り出し、ヤッシーに突き出した。 「カラオケ?」 「そう。カラオケの映像制作の依頼だとさ」 黙って書類に目を通すヤッシーからは、表情が読み取れない。 ハッシーによると、広報堂からの呼び出しに期待感マックスで出掛けていったのに、他に数社、小さな制作会社も顔を揃えていて、カラオケメーカーの担当者を紹介されたというのだ。 「ビクターに第一興商、東映にパイオニア、これからは毎月600くらい新曲がリリースされるっていうから驚きだよ」 ハッシーが名刺を手札のカードみたいに並べた。 カラオケは同じ曲でもメーカーごとに映像素材が異なるらしい。毎月リリースされる新曲をカラオケ音源に編曲し、イメージに合うような映像を制作して歌詞の字幕を付ける。制作会社が担うのは映像制作の部分だ。 「一曲六十万。納期は三週間だとさ。これじゃあ回んないよ。それに色がつく」 断る気満々の弱気な態度にヤッシーがかみついた。 「色ってなんだよ」 「あるだろ? そういうの。一回安易に引き受けたら安っぽい仕事しか回ってこなくなる。期待してたのに、これだよ」 「仕事は仕事だろ。それに安っぽいなんて言える立場か」 リアンは発足当時、映像部門とイベント部門に分かれていたが、次第にイベントの仕事がなくなり、主任以外のスタッフが辞めてしまった。 「しょうがないだろ。これから夏になったらイベントの仕事も増えるよ」 「いつまでそんな呑気なこと言ってんだよ。元広報堂のハンデはなくなったんだから、現実を見ろよ」 そう言うと、ヤッシーは電卓を叩きだした。 「一曲六十万だから、一日二曲分撮影して人件費を浮かせばいい。編集だってまとめてやればコストがかかんない。最初は四曲受注でスタートかな。そのうち余裕ができたら増やせばいいし――。とにかく毎月決まった入りがあるっていうのは先が見えるから有難いよ。薄利でも工夫すれば安定するだろ」 なんだかヤッシーの方が経営者みたいだ。 立場がないハッシーは、腕組みをしながら唸った。 「――ヤッシーの言う通りだ、仕方ない。ビクターと東映で二曲ずつ受けるって返事するよ」 そう決断すると、名刺の電話番号を手帳に転記しだした。 「じゃぁ、勝野さん担当ね」 ペンを走らせながらハッシーが言う。 「私が、ですか?」 「そう。制作の流れはもうわかってるでしょ?」 「一応……」 私は五十嵐監督の顔を思い浮かべていた。 なんの曲を依頼されるかわからないけれど、最初の作品は、彼にメガホンを取ってもらおう。 メガホンって――。 自分でもおかしくなった。 「勝野さんの名刺も新しくしなきゃだな」 「まだありますよ」 「いや、これからはメーカーとの打ち合わせにも一人で行ってもらうことになるから、肩書的なものがないと、おつかいに来た子どもみたいに思われるでしょ」 これまで様々なシーンで名刺交換してきたが、肩書のない自分はそんな風に見られていたのだろうか。心外だ。 「なにがいい?」 ハッシーが無邪気にヤッシーに訊いた。 「そうだな……立場からすると、プロデューサーだろうな」 「やめてくださいよ」 私にとって「プロデューサー」は、日本テレビの白川局長のイメージだ。すべてを取り仕切り、すべてに責任を負う立場。 「そんな名刺、人前で出せませんからね」 「地位は人を作る、って知らない?」 「初耳です」 二人から笑われ、不安が少しだけ遠のいた。 私は今までたくさんの人たちに手を差し伸べられてきた。 「役」にふさわしい人間に成長することができれば、恩返しできるのだろうか。 それよりどこかで話を聞きつけて、私をひやかして欲しい。 ――かっちゃん、プロデューサーって、おれより出世するなっつーの。 「勝野さん、嬉しそうだね」 「……嬉しいです。ありがとうごさいます」 素直に言うと、ヤッシーとハッシーは満足そうに頷き合った。
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