夜も更け、おでん屋が混んできた。 ほろ酔いでやって来るのはサラリーマンの集団だ。店内が次第に騒がしくなり、聞かれたくない話をするのは好都合となった。 「それで、あの話は?」 催促すると、イトウちゃんが意味ありげな目で私を見た。 「戻って来るぞ」 「誰が?」 「だから、ジャイケルだよ」 「また来日するの?」 ニヤリと笑い、軽く頷く。 なんだそんなことか。 私は拍子抜けした。 「へぇ」と答えて、てんぷら、いや、さつまあげを味わう。 「かっちゃん、相変わらず反応薄いな」 「だって、ただの来日コンサートでしょ?」 「バァだなぁ、再来日は機密事項なんだよ。去年から始まったワールドツアーのファイナルが、今年の年末のビッグエッグ。そこでヤツはステージから引退すんだよ」 「え? 東京ドームで?」 カウンターの中のおやじと目が合った。野球の話題だと勘違いされたかもしれない。 東京ドーム、通称『ビッグエッグ』は、日本初の屋根付き球場だ。三月にこけら落しをしたばかりで、それ以降野球の試合はもちろん、マイクタイソンのタイトルマッチ、ミックジャガーの来日公演や美空ひばりの復帰コンサートなど、チケット争奪戦必須のビッグイベントが続いている。 だからマイケル・ジャクソンが再来日して東京ドームでコンサートをしたとしても、別に世間は驚かないと思うけど……。 イトウちゃんが徳利の首を掴み、私のお猪口に酒を注いだ。 「ヤツのラストステージがドームって、すごくない?」 マイケル・ジャクソンに対して世間一般の感想しか持ちえない私は、イトウちゃんがいうところの「すごさ」がわからない。 1987年に来日した時は、『BAD』という驚異的な売り上げを記録したアルバムの話題もあり、連日ニュースで流れていたことを記憶している。 私は、といえば、そんなビッグイベントなど他人事で、多忙な日々を過ごしていた。ヤッシーたちも会社を立ち上げたばかりで、今よりもっと謙虚に働いていたのだ。 世間の喧騒は対岸の火事、いや花火だ。音も聞こえなかった。 それにしてもイトウちゃんの興奮ぶりは普通じゃなかった。 「マイケルのファンなの?」と確認した私に、「バァだなぁー」とウーロン茶を飲み干す。 「おれがそんだけのことで興奮するわけないっしょ」 そして「ウーロン!」とおやじにおかわりを注文し、私に顔を近づけてきた。 「おれのクライアント、ねじ込むから」 聞いたわけでもないのに、イトウちゃんは「おれのクライアント」を教えてくれた。ピエロをイメージキャラクターにしたコマーシャルで有名な信販会社大手の「東京信販」だった。 マイケル・ジャクソンとは結びつかなかったが、どうやら社長が大ファンらしい。 景気が上向き、企業はお金が余っているのか、文化にお金を出し惜しみしなくなった。 芸術に造詣や知識があるわけでもないのに、流行ってるからとか、人気があるからという不純な動機で大金を拠出し、それらの持つ目に見えない価値に乗っかろうとする。 イトウちゃんのような代理店の営業は、いち早く情報を入手して企業に売り込むのが仕事だ。 事業の協賛企業になり、販促グッズやキャンペーン展開の提案をする。乗じて代理店の売り上げもアップするというわけだ。 「地道に活動してた甲斐があったっつーもんだよ」 満足げにウーロン茶を飲み、「かっちゃん茶めしいこう」とシメを注文した。 マイケル・ジャクソンが初来日した昨年のジャパンツアーは、主催である日本テレビの開局三十五年記念事業だったらしい。代理店はライバルの東伝社でスポンサーは調整済み。 気づけばF1並みにレースが始まっていて、食い込む術がなかったという。 けれど今回はまさかの展開で、たなぼた状態だと上機嫌だ。 「まさかの坂があるんだな、これが」 小ぶりな茶碗に盛られた茶めしが運ばれてきた。 茶めしの上に茶色い豆腐が一丁乗っかっている。 さっきおまかせでみつくろってもらったおでん種の中にも入っていたが、もうひとつ食べろということらしい。 「これこれ。これがうまいんだよ。知らないだろ?」 「初めてかも」 どうやら、豆腐と茶めしを一緒にかっ込むのが流儀らしい。 私も茶碗を持ち上げ、イトウちゃんを真似た。 さっきも食べた豆腐なのに、茶めしに乗っかると別の食べ物になるみたいだ。 満腹のはずなのに、するすると食べられた。 「うまいだろ」 「おいしい」 二合徳利の中にはまだ酒が残っていたが、満足した。 あっという間に完食して、ほうじ茶を啜った。
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