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 人の欲望は際限がない。  アリーナ席のチケットを手に、大喜びしていたハッシーだったのに、三日も経つと、彼は感謝の二文字を忘れてしまったようだ。 「あと十枚、できれば二十、なんとかなんない?」  208会議室に積まれた招待券の山々が、私の脳裏に浮かんだ。 「それは、ちょっと……難しいかと」 「そうだよな。わかってんだけど、いろいろ付き合いがあってね」  どうせ夜の街で口を滑らせたに違いない。大方そんなところだ、想像できる。  イトウちゃんからもらったチケット十八枚は、ハッシーが社員に一枚ずつ手渡していた。 「みんな、勝野さんに感謝した方がいいよ」  促され、口々にお礼を言われるも、なんだか後ろめたかった。    私がイトウちゃんから別口でもらったチケットは、12月17日のアリーナ席最前列のど真ん中。同じアリーナでも、ハッシーたちが手にしたチケットとは数ブロック違う。  それにしても、招待券で、こんな面倒な事になるとは――。  ただほど怖いものはない。    街角に冬の気配が漂い、ジュエリーショップの店頭にも、リアンが制作したイメージビデオが流れるようになった。  ――自分 ときめく クリスマスジュエリー  こっそり店を回っては、偵察気分の私。客の反応も良いみたいだ。早速、担当者からお礼の電話が入った。 『おかげさまで、商品の問い合わせや予約が増えています。ブティックの方も、そろそろ企画会議をお願いしたいのですが』  そうだった。  終わった仕事の余韻に浸っている時間はない。  クリスマスジュエリーの次は、春物ファッションのイメージビデオ制作がある。  時代は先へ先、前のめりに進んでいく。  マイケル・ジャクソンの再来日の日も近づきつつある。  彼のマネージャー、フランクディレオを起用したコマーシャルも流れ出し、新聞には東京信販の大々的なキャンペーンが、カラーの全面広告で掲載された。   『期間中、東京信販カードに新規入会された方を対象に、マイケル・ジャクソン東京ドーム公演招待券をプレゼント!!』  特等のペア招待券の他、コンサート関連のグッズも当たるキャンペーンだ。  商品の写真が載っていたけれど、スタッフジャンパーやTシャツ、キーホルダーの定番グッズに加え、腕時計や銀製のメダルがあったことには驚いた。  これが「今までオッケーが出なかった物品」なのだろうか。  フランクに袖の下を渡してまでゴーサインが出たという割には、あまり魅力を感じなかった。  とはいえ、イトウちゃん界隈では、さぞかし盛り上がっている事だろう。  私には、もうなんの関係もない事だ。  後は特等席で、花火が上がるのを楽しみに待てばいい……。  ――そう思っていたのに、またもやイトウちゃんに呼び出された。   『かっちゃん、パーコー麺食いに行こう』 「パーコー麵?」  不本意ながら、ハッシーの顔が頭を過った。  イトウちゃんとパーコー麺なるものを一緒に食べながら、追加で招待券を十枚、いや、四枚でもいいから融通できないかと、頼んでみようか。  ハッシーにそこまでの恩義はないのに、まったくイヤになる……。  マイケルは、昨年同様、赤坂にあるキャピトル東急ホテルに滞在するという。  パーコー麺は、そのホテルの一階にあるレストラン『ORIGAMI』の名物料理らしい。    さすが一流ホテルだ。ORIGAMIは天井が高く、広々とした高級レストランの雰囲気で、何より客層が違って見えた。  さすがなのは、イトウちゃんも同じだ。その態度は場所を選ばない。 「パーコー麺二つ」と勝手にオーダーし、待っている間、「パーコー」が何なのかを熱く語った。 「漢字で書くと排骨。いわゆる豚のスペアリブね。でもこの店は食べやすいように豚ロースにしてんの。それも二度揚げして、サクサクのカリカリだから、うまいよ」  料理が運ばれてくると、その迫力に度肝を抜かれた。  細い麺の上に、サクサクのカリカリに揚がった豚ロース肉がどーんと一枚乗っかっている。 「のびないうちに食っちゃおう」  イトウちゃんは、真っ先にサクサクのカリカリを一切れ食べて満足げな顔をした後、派手な音を立てながら麺を啜り始めた。   私は、透明なスープを一口飲んだ。  見かけよりあっさりした味だ。中華というより洋風に近い。  細い麺を箸で持ち上げ、なるべく音を立てないように麺を啜った。  下味がしっかり付いたロース肉も、イトウちゃんが絶賛する通りサクサクのカリカリで、スープと麺によく合っていた。三位一体の見事なバランスだ。   「いやー、大変だった」    ORIGAMIと刺繍されたナフキンで口を拭いながら、イトウちゃんが、どかっとソファにもたれた。 「マイケルサイドがこっちの希望を全然聞いてくんなくて、もう苦肉の策よ」  いつもの事だが、話は「見出し」から入るイトウちゃん。  何を希望して、どう策を講じたのだろう。その先を知りたくなる。 「グッズのはなし?」 「あぁ、あれ? かっちゃん、なんか欲しいもんある?」  意外に冷めた口調で驚いた。  どうやら、グッズの出来栄えが不本意だったらしい。  「もっとカッコよくなるはずだったのにさ、ダサいだろ? いろんなヤカラが間に入ると、あーなるっつー見本だよ。見事にジャイケルの良さが消えてるっしょ」  否定はできなかった。  さらに、東京信販のカード入会キャンペーンも、反応が思わしくないようだ。  いくらチケットが当たるチャンスだとしても、信販カードを作るのはハードルが高い。飲料についているシールを集めて応募するのとはわけがちがうからだ。  おまけにカードのデザインもピエロで、マイケルとは関係ない。  もっと良くないのは、マイケルが外部との交流を遮断している事だという。  昨年の初来日の時は、いろんな場所へ出掛け、人と会い、滞在期間を楽しんでいる様子が報道されていたのに、今回は状況が違うらしい。  世界ツアーで疲れているのか、予定入れないでほしと通達があったそうだ。  マイケルは、どこにも行かないし、誰とも会わない――。  スポンサー絡みの交流などを予定していたイトウちゃんは、焦ったという。  せめて東京信販の家族には、マイケルを会わせたい。サインくらいほしいし、一緒に写真を撮ってもらいたい。    けれどいい返事がもらえなかったそうだ。  本丸まであと少しなのに、最後の砦が立ちはだかったという。 「それで、苦肉の策よ。おれが、はいそうですか、って引き下がるわけないだろ?」  私は水をごくりと飲んだ。 「恥を忍んで、白川さんに相談したわけ。そしたら、ジャイケルは子どもが好きだから、日本の子どもが伝統芸能的なものを披露する会だったら、顔出してくれるかもよ、って言うんだよ」 「へぇ、そんな事で?」 「そう思うだろ? そんな事で砦が崩れっかな? と疑ったんだけどさ、一発だよ」  イトウちゃんは、マイケルのミニ歓迎会を開くことにしたそうだ。ホテルの一室を借り、小学生の子どもたちに和太鼓を披露しもらう。そこには東京信販の社長家族も同席する。  フランクを経由して伝えたところ、マイケルが快諾したと返事をもらった。  しかし部屋には、限られた人しか入らないよう念を押されたという。  ――彼は今、とてもナーバスになっているから。 「で、さっきホテルのマネージャーに頼んで、部屋を押さえてもらったとこ。一番狭い宴会場にすっから、かっちゃんもおいでよ」 「は? 限られた人しか入っちゃダメなんでしょ?」 「そうだよ。フランクにはオッケー貰ってるから」 「ええっ?」  自分でも驚く声が出た。  花火が上がるのを待つだけだったのに、発射台の近くに招かれた気分だ。  いや、ちょっと例えが違う。  あまりの驚きに、ハッシーからの頼まれごとを、すっかり忘れていた。

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